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学校欠席後の放任と容認の話

毎朝の出欠選択

長男たこ・長女ぴこ・次女ちぃは、絶賛不登校・不安定登校の日々だ。

今週は、誰も、1日も、全く学校に行かなかった。1週間フルで休んだ。
もちろん毎朝「今日、学校どうする?」と母は聞いていた。
それは母がとても聞きたいことだったから。

不登校の子どもたちを親の登校プレッシャーで潰す気はナイ。
けれど、腫れ物を扱うように、聞きたいことも聞けないのも、なんか違うと感じている。

母の、「今日学校どうする?」に対して、
「行かない。」と返す我が子たち。3人ともが行かないを選択する。
「了解。」と自分の表情や声のトーンに浮き沈みを付けずに、母は最近は返せるようになっていた。夫の表情は見ない様にしているが、そのやりとりに肩を落としているのは空気で感じていた。

夫の気持ちは痛いほどわかる。母も夫の感情に引っ張られそうになる。「学校、行けよ~。ほんとに大丈夫か?成長期だぞ?」という思いが無いわけがない。しかし、母は、そこを出さない様にした。

母だって受け入れることはまだ出来ない。「休めばいい。」「学校は行かな行かなくて良い」と肯定したり、決め打ちすることは到底無理だ。だって、行ってほしいんだもん。
今、やっと受け止められるようになった。「わかった。」「そっか。」と声のトーンをそのままに、伝えられるようになっただけにすぎないのだ。

そのやりとりの中でも、母には絶対のルールがあった。
それは、『自分で決めること』

「〇〇が休むなら、私も行かない。」「〇〇が嫌なこと言って、行きたくなくなった。」と、子どもたちが自分の欠席の選択に、兄妹を引き合いに出してくることがある。更には、「親が行けって言うから、仕方なく行く。」という事も同義だ。
それに関しては、猛烈に叱った。“人のせいで自分の選択が変えさせられた”というようなことは絶対に許さなかった。休むも、休まないも、全部自分の責任で決めて欲しい、という思いがあった。

休むことにも、学校へ行くことにも、リスクが伴う。自分で決めなかった時に、人の意見で動いたときに、そこでトラブルが起こったら、必ずこの子は人のせいにしてしまう。自分の事なのに、人に責任を擦り付けてしまう。それはどうしても母の中で許すことが出来なかった。

夫「ネグレクトだと思う」発言

一週間子どもたちが家に居た。ホットカーペットの上に集まり、パソコン、switch、テレビ、すべてが朝から晩まで煌々と光り、ガチャガチャと音を発していた。

YouTube、ゲーム、Amazonプライムの稼働時間は一日に12時間を超えた。

夫が仕事から帰宅したのは19時半だった。
子どもたちはメディアから目を逸らさず「おかえり~」と言葉だけ夫に投げていた。夫の深いため息が、夕飯を温めながら聞こえる。

「食事の時は、メディアは消そう」という約束は、最近夫が提案したものだった。長男たこは、「良いよ」と了承した。長女ぴこは、「嫌だけど仕方ないね」と納得していた。次女のちぃは、「やだぁ!!」とゴネていた。

その日はちぃが、アマプラに夢中で食卓になかなかつくことが出来なかった。「ちぃ、お腹すいてないから、ご飯いらない。テレビ見る!」と一歩も譲らない。
今まで、親が強制的にOFFのボタンを有無を言わさず押していたのだが、母には伝えたい思いがあった。

「家族がそろって食事をする時間を大切にしたい。みんなで楽しかったこととか、今日一日の事とか、お話しながら食べようよ。」と。
「ごはんの味をしっかり感じて、ゆっくり食べると、身体に良いんだって。何かをしながら食べるより、食べることに気持ちを向けると、食べすぎとか、食べなすぎとか、分かるようになるんだって。」と。

ちぃは、「はいはい、ちぃは、楽しいこと何もなかったです。お腹すいてないので、ご飯はいりません!」とテレビを消さない。

「ちぃ!!」と母の声が大きくなるのと同時に、夫が「いい加減にしなさい!」と大きな声を出した。

両親の怒りに触れて、ちぃは逃げ場がなくなってしまった。「消せばいいんでしょ!もういい!!」と怒って、寝室の扉を力を込めて閉めて、閉じこもって泣いてしまった。

家族が自分のお茶碗のみを見つめ無言で食べる、暗い夕食だった。

食後、それぞれが晴れない気持ちで空を見つめていた。会話もない、何かをやるやる気もない、ちぃは泣いている。そんな雰囲気を打破しようとしたのだと思う。たこが、「バラエティー見てもいい?」と両親に聞いてきた。

母は、少し静かな空間で、気持ちの整理をしたかった。
「夕飯の後は、ちょっと本読んだり、お風呂入ったり、ゆっくりしたいかな。」とたこに伝えると、たこはつまらなそうな顔をし、ため息をついた。

すると、夫が、言いにくいことを言います。という重々しいトーンで話し出した。
「おれ、これ本当に良くないと思う。」夫が頭を抱えている。
「ゲームとYouTubeで1日過ごしてるんでしょ?帰ってきて、この状況見ればわかるよ。おれの仕事中、ずっとテレビやパソコン、なにかしらついてるよね。子どもたち、ずーーーっとYouTube漬けでしょ?」
そして言った。
「これ、おれ、ネグレクトだと思う。」

母は、ゆっくり目を閉じて、深呼吸をした。けれど、みるみる大きくなる感情を抑えることが出来なかった。
「そうだね、その通り。私はネグレクトをしています!!本当は外に出ればいいのに!本でも読めばいいのに!いっぱいいっぱい思うことがある!!けど、何も無理やり子どもを引っ張ってやらすことが出来ない!!私は、子どもたちに、自分で気が付いてもらいたいと思ってる!!」

夫は言った。
「この子たちに自分で気が付けって言うのは、無理だよ。幼すぎる。何も分かってないよ。何も知らないよ。大人が手を貸さなきゃ。導かなきゃ。気が付いたときには手遅れになってる。」

母は、「私にどうしろって言うの?私は声かけてるよ。『散歩にいこう』とか、『買い物行くけど一緒に来る?』とか、『洗濯物手伝って』って。でも無理なの。子どもたち誰も動かない。このままじゃダメなのにって思うけど、無理やりに3人を動かすことが出来ない。戦う気力が私にはない。」

夫は「何もしてないおれが、言えることじゃなかった。ごめん。」と母から目をそらした。

リビングで声を張り上げて、両親が喧嘩をしている。こんなやりとりの中に居ても、たこはゴロンと寝転がって居たり、ぴことちぃは遊びの相談をしたりしている。
母は、この状況に体の芯から力が抜けてしまう。子どもの事を話しているのに、我関せずの子どもたちだ。そういうマイペースな子を1日中相手にしているのは、母だった。

母は、夫に言った。
「最近、ご飯は頑張って作ってる。私にできることはそれだけだ。」

揺れる思い

胃がモヤモヤする。このモヤモヤは、怒りなのか、悲しみなのか、戸惑いなのか、ショックなのか。わからない。全部だと思う。
私はどうして、夫に対して、あんなにも感情が溢れてしまったのだろうか。それは、子どものたちの状況に、自分も納得していなかったからだ。

「子どもが元気なら、それでいい!笑っていればそれでいい!」
と納得しているつもりだった。けど、心底そう思っていたら、夫の発言に対して、荒ぶることはなかったはずだった。
「大丈夫!子どもたちすっごく元気だよ!安心して!」と夫に笑顔で返せたはずだった。

自分の中で押さえつけて、無理に納得させようとしていた事実。見て見ぬふりをしていた事実。
子どもたちは、YouTubeとゲーム、アマプラを見続け、家というぬるま湯に居続けていた。家族以外との交流、体験、学習、運動。それらのすべてを家に閉じこもる事で放棄していた。

母自身も迷走していた。
元気ならいいのか?学校に行かないにしても、学びは大切ではないか?強制した学びに吸収はあるのか?心が満たされれば動き出すというのは本当か?
考えても考えても、本を読み漁っても、専門家の講演を聞いても、自分の核が決まらずグラつく。行ったり来たりしていた。

このままで良いわけない。放っておいて何かが進むとも思えない。けど、親の焦りは不登校のご法度だ。子どもたちに安心基地を作りたい。
家に居させれば、ここではダメだ、と思う。学校に行かせれば、疲れて帰ってくる。外に出れば、お金がかかった。ラットレースのような感覚だ。

家の外で、学校では無い場所で、子どもが自分らしさを発揮できる場所が必要なのだろう。できればお金がかからない場所で。そんな選択肢が持てる社会が必要なのだろう。

夫の事


夫は、公立校で不登校をしている我が子たちの事をとても心配している。

夫自身、自分にできることをめいっぱい考えているようだ。そして、夫の出した答えは、子どもの選択肢を増やせるように(フリースクールや私立など)資金を増やすこと。
シャカリキに働いて、全くOFFがない日々を過ごしている。22時を過ぎても、メールやラインが鳴りやまない。もしくは調べ物をしている。ケータイ・パソコンを肌身離さず、チェックしている。

夫は自分で気が付いているだろうか。最近とても元気がない。覇気がない。
夫は大声で笑う人だった。夫の笑い声で、小さな邪悪な悪霊たちがパッと消し飛んでしまうような、そんな笑い方をする人だった。最近、夫が笑わない。我が家の厄払いが全然できていない。

考えることがある。どう生きるのが正解なのか、と。
『やるべきことをきっちりやって、社会に貢献して自分以外も幸せにできる資産を確保すること。』
『やりたいことをのんびりやって、自分の時間を充実させて、ある分の少ないお金で、元気に生きていくこと。』

それぞれに立場もあるし、抱えるものも違うと思うけど、私は、家族に健康でいて欲しい。心も。身体も。
誰かの犠牲の上に成り立つ幸せでは無くて、それぞれ自分が、幸せだと思えて、それが周りに派生していくような、そんな幸せを得たい。

私にできることは何だろう。
『美味しいご飯を作ること』しか、今は思いつかない。

自分への教訓

  • 元気なら、それでいいじゃない、と深く理解すること。

  • 強制ではなく、自分でしっかり考えて決められるようになりたい。

学校で生きずらさを抱える子どもたちのために何ができるのか。 たこ・ぴこ・ちぃだけではなく、不登校児の安心できる居場所づくりの資金にしたいと考えています。