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ちぃの登校とXの投稿の話

長男たこ・長女ぴこ・次女ちぃは、不登校をしている。
両親はまだ、完全不登校に切り替えてはいない。出来れば学校に行って欲しいと思っている。

ある朝の会話

月曜日の朝はいつも揺らぐ。今日から新しい週の始まりだ。仕切り直しのタイミングだ!という気持ちがどこかにある。
週の初めにどんよりする人は、きっとフルコンボを目指していて、5日間も登校・出勤しなければならない。。と落ち込むのだと思う。

けど、長年不登校でここまで来た母の思いは少し違う。
休み明けが一番しんどい。そして、みんなが月曜は休み明けだ。不登校の子も。そうじゃない子も。
その月曜日に登校が出来たらもう、他の曜日なんて余裕じゃないですか?と。逆に、月曜乗り越えないと、月曜、火曜…と休みの蓄積がされ、登校が重くなり続ける。
まぁ、そうじゃなくても、月曜クリアしちゃったら、もう、ラスボス倒したし、他休んでもいいやって、心に余裕が生まれませんか?
「いや、今週月曜行ったし。めっちゃ頑張ったし」って。月曜登校、週休6日、でもいっかって。

そんなこんなで、月曜の朝は、親がいきり立っていた。
『休む宣言』もなく、当たり前のように朝8時前からYouTubeを付けだす我が子に、問いかける。

「家でリラックスするのは、大賛成。しっかり休んで元気溜めればいいと思う。けどさ、本当にちゃんと休めているの?沢山家で休んできたけど、何かやりたい!とか、気持ちわかない?なんかさ、ぬるま湯に漬かりすぎて、外に出るのが億劫になってない?君たちは“本当に休んでる?”」

長男たこには、特に感じていた。たこは“休んでいるのか?”
どうも家で“ストレスを熟成”させているように見えた。瞳の輝きがない。焦りをごまかすために、現実を直視しないために、ゲームにのめり込んでいるように見えた。
たこは4月から中学生だ。環境が大きく変わる。不安じゃない訳ない。

たこは、外出に誘っても「行きたくない」と言った。無理やり連れだしても「帰りたい」といった。たこが好きそうな楽しい事を提案しても「お金の無駄」と言った。エネルギーが枯渇していた。

「本当に休んでる?」という母の問いに対して、たこはうつろな目でいった。
休んでない。サボってるんだよ。
たこの表情には、英気が全くなかった。その『サボり』に象徴される、自分自身の不甲斐なさ、無力さ、無念さを心の中に必死に押し込んで隠そうとしているように感じた。

たこは、もう12歳だ。社会がどうなっているか。現実とはどういうものか。そして自分は、社会の中で現実と向き合わなければいけないこと、それが今出来ていないのではないかということを分かっている。考えなければ、動かなければと思いながら、向き合えずにいるのだと思った。

ちぃの登校

月曜日の夜。朝の母の問いかけから、たこの「サボってる」発言を受けて、1年生のちぃは、ちぃなりに考えたのだと思う。
紙に『ちぃのもくひょう』と題して、いくつか自分で目標を立てた。

  1. がっこうにいく

  2. がんばる

  3. めおやすめる(目を休める)

  4. さんぽおする(散歩をする)

  5. すぐなかない

  6. あきらめない

そしてさいごにこの目標を総称して、いしおもつ(意志を持つ)と書かれていた。
「ちぃ、あした、学校に行く!!」
とちぃが言った。分かった。応援する。と母はちぃに付き添うことを約束した。

ちぃが登校できたのは11時を過ぎてからだった。兄と姉は学校を欠席することを選択した。

ちぃが学校に着くと、グラウンドで体育をやっている学年が居た。ちぃは、校舎の陰に身を隠してしまう。
それに気が付いた用務員の先生が、ちぃと母のもとに歩いてきてくれた。

「お!背、伸びたなぁ!」と笑顔で話しかけてくれる。リュックで顔を隠していたちぃも、柔らかい雰囲気に少しずつほぐれていく。

「先生、見てて!」と用務員さんに持参した縄跳びを披露する。「うまいじゃん!家で練習してたの?」「うんん。保育園でやってたの」なんて会話が弾んでいく。

そうこうしていると、グラウンドに小さい子が出てきた。1年生かな。グラウンドの奥に居る先生の姿が担任っぽい。「あ。1組だ。」ちぃは、走り出した。逃げた!と思って母も追いかけた。
しかしちぃは、グラウンドの奥側に走っていた。直線で行けばすぐなのに、校舎を一周回って校舎裏を通り辿り着いた。

「ママ、行こう。」とちぃは1年生の集団を真剣な目で見つめている。
「うん。挨拶しようか?」と母が言うと、
「やっぱりママ、ここで待ってて。」と母を残しグラウンドのクラスの元へ走って行った。

クラスの子がわー!!と沸いたのが見えた。ちぃの遠慮している姿も見えた。クラスの子の一人が、グラウンドに白線を引いている担任に「ちぃが来た!」と声をかけに行く。担任はちぃに目を向けて、軽く手を挙げて、白線を引いていた。

ちぃが自分で担任に挨拶に向かうのが見える。担任は、ちぃを受け入れていた。そしてちぃに何か説明しているようだ。そして、1年生の鬼ごっこが始まった。

「よく来たねー!!」なんて歓迎感動ムードは一切なく、自然に活動が始まっていく。ちぃにはそれがとても心地よかったようだ。
「君はここにいて当然だよ。君のクラスなんだから。」そう言ってもらえたようで、淡々とした担任の態度が、母には嬉しかった。

活動の『鬼ごっこ』では、ちぃはめちゃくちゃ担任に狙われ、捕まりまくっていた。「先生~!かんべんしてよ~!」というリアクションで、ちぃが先生に絡んでいるのが見えた。
捕まったあとも、捕まった者同士の友だちと談笑してる。ちぃを解放しにくる捕まってない仲間にタッチされ、ちぃがまた走り出す。
母は、グラウンドの端っこでその光景を見つめ、目が潤んだ。来れて良かった。楽しそうで、本当に良かった。

ちぃ、授業を受ける

友だちとの鬼ごっこが楽しくて、ちぃの気分はとても乗っていた。友だちに誘われて、クラスに入ることができた。

ちぃの机は、席替えされておらず、いつもの場所にあった。
「プリント、こーんなにあるよー!」と友だちがちぃの机の引き出しを面白そうに引く。「うわ!」っとちぃが首をカクンと後ろにそらす。お手上げ~というリアクション。友だちが笑う。

ちぃが、プリントをガッと掴んで、クシャクシャにリュックに詰め込んだ。「これでもう大丈夫!」という得意げなちぃの顔を見て、友だちがまた笑う。

授業が始まって、みんなパソコンを出して、タイピングのスコアを競った。ちぃも母がアルファベットの位置を隣で教えながらやっていた。
けれど、周りの子のスコアに追いつかない。ちぃは自分にじれったさを感じ始めていた。

ちぃは、「こうやればいいんだ!」とキーボードの上を指でダーっと滑らせた。ピアノを指の背でドゥルルルルと弾くように。キーボードに指を這わせた。数打ちゃ当たる作戦。
それを見た男子が、笑ってマネする。「ちぃ、壊れちゃうよ。」母は止めたが止まらない。そのうち女子に「それやっちゃ、いけないんだよ!」とキツめに注意を受ける。「先生~これ、良いんですか?」と先生に聞く子が出てくる。

あぁ。。あったなぁ。こういうの。母は自分の過ごした学童期を思い出す。「いけないことは分かってる。」でもやってみたいじゃん。そのあとどうなるか、知りたいじゃん。言う事きいときゃ良かったって、反省も必要じゃん。しかも、同じ立場の子どもが、なんで怒り口調なのよ。なんで責めるのよ。
「先生~」もそう。注目をちぃに集めて同調圧力で止めようとする子が必ずいる。先生と言う絶対の権力を利用しようとする子が。悪いと思うなら、自分がやらなきゃ良いだけじゃん。あなたに迷惑かけました?パソコン壊れて困るのは、誰ですか?少なくとも、あなたではありません。
広義で「これは税金だぞ!」と言われれば、はい、その通り。ごめんなさい。なんだけど。働いてもねぇやつ(子ども)が、自分の影響外の事に口出してくんじゃねぇ!!なんて、攻撃的な感情が生まれない事もない。

めんどくさ。という母の思いと同じタイミングで、ちぃも「めんどくさ。」と思ったようだった。もう一度、「ママ、教えて。」とタイピングにもどった。えらいじゃん!なんて親バカにも、ちぃを見直してしまう。

しかしここで、やっぱり学校と言う場では、『決まりを守りたい子』がいて、『統制を保ちたい子』が居る。『ピリついたやり取りが苦手な子』への配慮も忘れてはいけない。色んな人格の集合体がクラスだな。と思う。

しかし、授業のラスト15分を残して、突然ちぃが挙手をした。
「先生!これ、飽きたので、校庭に行ってきます!!」
ええええええ???母、目が点。何言ってるの?許されるわけないでしょ。パソコン閉じても良いから、座ってろ!!授業中だ!!と母は思った。
「いいですよ。いってらっしゃい。」と先生が言った。

ちぃはもうとっくにパソコンを片づけて、廊下に出ている。子どもたちも唖然としている。母は、担任に深々と頭を下げて、ちぃの後を追った。
「また、給食にきてね~」と子どもの誰かが、教室からちぃに声をかけてくれた。


X(旧ツイッター)への投稿

母は、Xでつぶやいた。今日のちぃ出来事を。
この「授業を抜け出した」というエピソード投稿に対して、コメントを寄せてくれた方々がいた。

「自分の気持ちを言えて、偉かったね。」「許してくれた先生がステキだね。」というコメントには大変救われた。
きっと、教育現場で子どもに思いがある人か、生きづらさを深く理解している人の言葉なのだと思う。

「周りの子どもたちに奇妙にみられて、母自身が居たたまれなくなる。」といコメントもあった。本当に共感する。我が子も癖が強い。常識では考えられないクレイジーなことを日々やらかしてくれる。そのたびに母自身も苦しくなっていた。どう育てたら良かった?なんで、こうなった?と。

でも、きっと違う。母自身が世間体を気にしているから辛い。世間体は二の次で良い。最低限、誰にも迷惑はかけていない。母がどう思われようが、それを考えるのは今はやめよう。

今まさに、この瞬間。クレイジーと思われる行動を起こして、実際に苦しんでいるのはこの子自身だ。癇癪もそう。突飛な行動もそう。不登校もそうだ。
この子は何かを訴えている。この子の問題に、私がどうしたら力になれるのか。この子は一体何が苦しいのか、それを考えるのが、身近な大人の出来ることなのだと思っている。実際に出来てはいないが。

授業脱走を受けてのコメントの中に、
「周りの子への悪影響でしかない」というコメント、
「我が子のクラスで起きたら、親としてクレームを入れる」というものもあった。

周りの子への悪影響。母もそれを危惧しないわけがない。
しかし、実際にちぃを追って校庭に出て子はいない。「給食には来てね~」と声をかけてくれた子に象徴されるように、子どもたちは自分の事と、ちぃの事を分けて考えている。

“自分はどう動くべきか。”を1年生でも立派に自分で考えられる。

そして、もう3学期だ。担任と子どもたちはしっかり信頼関係を築いているだろう。担任の思いを考えられない子は少ない。ちぃも、不登校ではなく、久しぶりの登校でなければ、きっと授業を当たり前に受けている。

ちぃは確かに言葉足らずだったかもしれないが、教室に居られないのっぴきならない事情があったのだろう。

けれど、『周りへの悪影響』という意識は、世間の多数派の意見であるとも思う。私はXで不登校関係の投稿が多いので、不登校の理解ある人、当事者と情報交換しているが、全く不登校のふの字も生活に無い人の方が、社会の大多数だ。現状を知らない人が多すぎる。

『クレームを入れる』の真意が判らず、先生に?子どもに?そんな子を育てた保護者に?と問いかけた。
クレームを入れる、というのは、自分の人権が侵害されたと感じるからだ。
前述したとおり、大抵の子どもたちは自分の事を自分で考えて行動できる。感化されて、影響される子がいたとして、その子の責任は、私の子にあるのか?ましてや、先生になんて、もっとない。

その人は、親にクレームを入れる、という事だった。
子育てをしていて思う。子は、親の思い通りにはならないもんだな、と。
子育てに悩みが無い人がいたとしたら、たまたま親の思想と、子の思想がマッチングしただけのこと。親の思い通りに育っているということ。それが本当にマッチングなら素晴らしい。

不登校になり、私自身戸惑った。けれど、今まで子どもが我慢していたことに気が付けて、どうしてあげることが助けになるのか、そんなふうに向き合う機会を得られたことは、大きな経験になったな、と思う。

自分への教訓

  • 協調性は大事だけれど、調和の中でも、個を尊重出来たらいいな。

  • 周りの目、よりも自分には何ができるか、本当はどうしたいのか、考える。

学校で生きずらさを抱える子どもたちのために何ができるのか。 たこ・ぴこ・ちぃだけではなく、不登校児の安心できる居場所づくりの資金にしたいと考えています。