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正しさの尺度。

ちょっと前に開催された米アカデミー賞において、俳優のウィル・スミスさんがコメディアンであるクリス・ロックさん(以下敬称略)を平手打ちした騒動が話題になりました。

個人的には『ウィル・スミスかっけーっ』って感じで好意的な印象でニュースを見ていたんですが、知識人や米国の印象は真逆のようで『クリスはショーとしてやっていた。暴力で抗議するなんて論外』という論調が大勢のようです。
そういう論点や様々な問題提起に対して、私はそれでも『やっぱりウィル・スミスを擁護したいな~』と考えていて、そう思う理由をつらつらと書いていこうというのが今回の記事の趣旨となります。
(我ながらなんというしょうもない動機w)

書いていたら、文字数も掛った時間もめちゃめちゃ長くなってしまったので、時間が無い方はこちらを見て頂ければいいかと。
140字で大体同じことを言っていますw。


●騒動のあらまし


この騒動の発端は2022年3月24日、第94回米国アカデミー賞の授賞式で、コメディアンのクリス・ロックがプレゼンターとして司会していたことから始まります。授賞式のイベントの中でクリス・ロックはウィル・スミスの妻のジェイダの髪型に言及し『G.I.ジェーン2を楽しみにしてるよ!』とジョークを飛ばしました。(G.I.ジェーンはデミ・ムーア主演の映画で、当時頭を丸坊主したことが話題になった映画。つまりジェイダの丸刈りの髪型について揶揄したジョーク)

ウィル・スミスは最初は笑っていましたが、ジェイダは一瞬で顔色が変わります。なぜならジェイダは長い間、脱毛症に苦しんでいたから。

彼女の表情を見たのか(あるいは違う他の理由なのか)ウィル・スミスは突如壇上に上がり、いきなりクリス・ロックを平手打ちにします。
そしてFワード(=放送禁止用語)を織り交ぜながら会場に響き渡るほどの大声で「妻の名前を口にするな!」と怒鳴りつけるという騒動となったのです。

その騒動の後、なんとウィル・スミスは主演男優賞を初受賞。そのスピーチで自分の行為について謝罪し、さらにSNSでも謝罪します。
クリス・ロックはウィル・スミスの暴力について、告訴しないことを表明しましたが、賞を主催する映画芸術科学アカデミーはウィル・スミスに対し、今後10年間授賞式への出席を禁止する処分を課しました。(主演男優賞のはく奪は行われず)

ウィル・スミスはそれらの処分を受け入れ、映画芸術科学アカデミーから退会する意向を明らかにします。

というのが、ざっくりとした一連の流れです。

(授賞式から一夜明けて、ウィル・スミスがinstagramで発表した謝罪文)


●さまざま人々の意見や背景


この騒動は本国アメリカで多くの人が言及する大きなニュースになりました。日本でもその余波は長く続き、問題についてさまざまな角度から語られています。
ここでは私が騒動をきっかけにして知る事になったいくつかの出来事や、意見などを記しています。全部を網羅しているわけではありませんが、色んな人の意見を知るほどに考えることがありすぎて頭がクラクラしてきますね。
(雑多な内容が多いので箇条書きです)


・ジェイダは長年脱毛症に苦しんでいて、坊主頭にしたのはそれが理由。(クリス・ロックは知らなかった?)

・『G.I.ジェーン』という部分が最大の問題とされているワードだが、実は必ずしもネガティブな言葉ではない。会場にいた人もそれが差別的だと判断出来ていなかった人も多かったという話も。
(映画では女性が軍の特殊部隊の試験に受かるため決意の丸刈りをしていた)

・騒動直後のアンケートでは6割の人々がウィル・スミスの方が悪いと答えていた。(その後のアンケートではウィル・スミスが謝罪したこともあり、賛否は拮抗している)

・日本ではウィル・スミス擁護派が顕著。
(ただし知識人と呼ばれる層はクリス・ロック擁護派が多い印象)

・クリス・ロックは過去に『グッド・ヘアー』という黒人のヘアスタイル事情を扱う作品を手掛けていた。(黒人女性にとってヘアスタイルは差別感情に関係するデリケートな問題なのだと啓発していた)

・クリス・ロックはウィル・スミス、ジェイダ両方とも知人でありそれぞれ共演もしていた。ウィル・スミスとは舞台裏でツーショット写真を撮っていたりもしたことも。(交流がある一方で、確執があったとも)

・ジェイダ自身が、過去にやっていたことを踏まえると自業自得という意見。(20歳以上年下の歌手と浮気、ウィル・スミスとの性生活を自身の番組上で暴露etc.)

・ウィル・スミスも若い時に差別的と捉えられる発言をしていた動画が掘り起こされた。(一方的にどちらかを非難できないという話)

・欧米では、そもそも政治家やスターは(セレブという特権階級という事も含めて)コメディアンからネタにされても笑って過ごさなければならないという暗黙の了解のような共通認識が存在する。

・観客席から怒鳴ったり、ツイッターを通して非難したり、何か言ったりするのはいい。しかし歩いてステージに上り、何かを言われたからと誰かの顔を引っ叩く権利などない。(by ジム・キャリー)

・ウィル・スミスが暴力を振るったことで『黒人は怖い』というこれまでの偏見を助長させたとする意見。(黒人社会への偏見を無くそうとしてきた努力の歴史に水を差した)

・ウィル・スミスが行った『妻を守る』という行為自体が逆に『女性=弱い存在』という男女差別の偏見を持っている証拠だという話。(ジェンダー論)

・クリス・ロックは(人の気持ちを読むのがうまくない)非言語学習障害を患っていたし、ウィル・スミスはADHD(注意欠陥多動性障害)だった。(行動は病気によるものだから情状酌量すべき?)

・言葉の暴力と実際の暴力は、どちらが重いのかという問題。



●クリス・ロックの正しさ


この騒動を語る時に、気になるのが『どっちが悪いんだろう?』という部分です。互いに非のある行動はしている訳で、結局はどちらが許されるべきで、どちらが問い詰められるべきなのだろうと。

二人の行動を論じる時に、その行動の正しさの尺度を『法律』とするなら『クリス・ロックの方が正しい』という結論になると思います。

クリス・ロックの発言内容がたとえ名誉棄損に当たる内容だったとしても、ウィル・スミスの起こした暴行は、それを正当化出来るものではありません。
端的に言えば名誉棄損罪(侮辱罪)は親告罪で、傷害罪(暴行罪)は非親告罪であることからも罪の重さを測れると思います。
(もちろん罪自体も傷害罪(暴行罪)の方が重いです)


法律的な正しさのみで議論するのであれば、先に(妻を)侮辱したという状況を鑑みたとしても、暴行を犯したウィル・スミスの方こそ糾弾されるべきで、多くの人がクリス・ロックの方が正しいという結論になるのは、ある意味当然の事かもしれません。


というわけで

『クリス・ロックが正しかった』

というのが、結論となります。


でも…。
でもそれを聞いて、ちょっと「えっ…?」ってなりません?
なんか思ってたんと違う…そういう話じゃなくないって、なんとなくなりません?

私たちが色々感じたり、考えていた事は、もっと違う何かだったような気がするのは私だけでしょうか。


多分、『法律』というのは、みんなが納得するための最大公約数的な尺度だと思うんですよね。

もちろん納得できない場合も多いですが、何度も議論を重ねた上で作られた法律は、他の尺度よりも信用があるのは間違いないと思います(だってそれで自由を拘束されてしまうこともあるのですから)。

そういえば昔、笑福亭仁鶴さんがご近所トラブルを法律家が判断するという番組をやっていて、良く見ていたなーって事を思い出しました。

見ていた時は何にも考えてなかったけど、『トラブルに対処する考え方』というのは、こういう事なんだなーと思うんですよね。

感情的にぶつかってそれでも解決しない場合、最終的に皆が考え方を合わせるための物差しが必要で、それが『法律』なんだと。

正しいか正しくないかを判断するときに、自分の感情だけで物事を語るとただの感情論になってしまうし、それでは何も解決できないんですね。
だからこそ、正しさを判断するときにの根拠を『法律』に求めることは、社会的にはとても大事なんだなーと、今回あらためて感じたわけです。

そういう意味で『クリス・ロックが正しい』と言っている人は、間違ってはいないんだろうなと。間違っていないどころか、多分正しい。


でもな…と思うのです。(2回目)

確かに何かを正しさを語る時に、その根拠を『法律』とすることは妥当なのかもしれません。
だけど納得できない部分が自分の中にあるのも確かなのです。それは一体何なのでしょうか?
それはただの一時的な感情の問題で、無視すべきものなのでしょうか?


むしろ、それこそが私が大事だと考えている部分であり、ここで書きたいことだったりする訳です。


●ウィル・スミスの正しさ


ウィル・スミス擁護の意見を述べる前に、ひとまず『法律的な正しさ』は横に置いておいて、それ以外の論点で批判されていた

・『暴力について』
・『妻を所有物として見ているというジェンダー論』
・『黒人社会のナラティブ(物語)からの批判』

という3つの問題提起に対して、私なりの考えを書きたいと思います。
法律的な正しさについて反論しないのは、しないのではなく出来ないからです。それを踏まえた上で考えたことは後に言及しますが、他の論点に対しても面白い視点だなーと思ったので、思う所を書いていきたいと思います。


●『暴力について』

これは割と一般的な『言葉よりも暴力の方が罪が重い』という意見ですね。(ここでは法律的な罪の重さについては言及しません)


『どんなに腹が立ったとしても、口を出すのはともかく、手を出すのは論外』

という考え方は、それ自体は否定しないし、むしろ多くの人が賛同すると思います。

だけど今回の騒動で多くの人が『今回はちょっと違うんじゃないか』と思ったのは、『暴力』対して拒否感を感じると同時に『言葉の暴力性』についても同じくらい拒否感があったからだと思うんです。

その背景には日本における社会的な事情というのもあると思います。
言葉の暴力や、セクハラやパワハラが誘発しやすい環境。それによって多くの人が心を壊してしまうという現状は、『言葉の暴力性』を他人事とするにはあまりにも身近にある問題だったのではないでしょうか。

会社、学校、家庭と、あらゆる場所で言葉の暴力にさらされるのを目の当たりにしている人ほど、『言葉の暴力性』に対して拒否感があるのだと思うのです。

あるいは『言葉で人は簡単に殺せる』ということの重みを知っている、とも言えると思います。

それが『暴力』を肯定するわけではないことは当然ですが、そういう人たちにとって必ずしも『暴力』が『言葉の暴力』より上だとは思っていないんじゃないかと思うんですよね。

あの夜、ウィル・スミスの暴力に怒った人よりも、クリス・ロックのジョークに怒った日本人が多かったのは、『よりダメージを受けたのはジェイダ(ウィル・スミス)の方』と思ったからではないでしょうか。
だからこそ、ウィル・スミスが世間から叩かれたことに対して理不尽に感じたし、クリス・ロックが正しいという声を聞いて間違っていると思ったのです。

言葉の暴力は、時に肉体的な暴力よりも人を傷つけるからです。


●『妻を所有物として見ているというジェンダー論』


『ウィル・スミスが起こした行動は、妻を守ったという美談ではなく、妻(あるいは女性)を所有物と考える傲慢さから出た行動なので、容認できない』というジェンダー論(性差意識)からの批判もありました。

『俺の持ち物に何しとんじゃい!』と怒ったと批判しているわけですね。


そういう見方があること自体、考えていなかったのでびっくりしたのですが、その批判を知って私が思ったのは『え、怒った理由そこじゃなくない?』という事でした。

私はウィル・スミスが怒った理由は『大切なもの(人・コミュニティ)を失いそうになったから』だと思うんですよね。物を傷つけられたから怒ったんじゃなくて、自分の大事なもの(絆・コミュニティ)を奪われそうになったから怒ったのだと思うのです。

『所有物』と『大切なもの』って、言い換えただけでほとんど同じじゃないって?
確かに似てますよね。まぁ、少しお待ちくださいw。

ウィル・スミスが怒ったのは『大切なもの』を奪われそうになったからです。
ウィル・スミスにとって大切なものとはもちろん妻(家族)のことで、その尊厳を傷つけられたから。彼はそれを失わないためにわざわざアカデミー賞をぶち壊してまでも抗議した訳です。

個人もそうですし集団でも同じですが、人は自分の居場所を失うことに大きな恐怖と怒りを持ちます。
ウィル・スミスにとって一番大切な居場所だった家族を失う危機感を感じたからこそ、彼は恐怖し、最大限の怒りを表したと思うんですよね。

妻や子供だったからという話ではなく、親や親族でも同じ文脈で怒ると思うし、人によっては友人でも同じだと思うのです。
それを『妻が所有物』だったから怒ったというのは、いささか乱暴な気がするんですよね。だってもし『物』扱いしているのであれば、そのためにキャリア全てをふいにしようとしていた訳ですから。

『所有物』と『大切なもの』との境界線は重なり合う部分も多く線引きは難しいですが、私は『対象を(物理的・精神的に)縛っているかどうか』だと思います。
物は自分の好きに出来るけど、大切なものには(物でも人でも)敬意を払う必要があります。そこにはリスペクトが必要です。
批判している人がどういうつもりでもの扱いしているのは分かりませんが、愛妻家の夫とDV夫の何が二つを違えるのかを考えると、その違いが分かるのではないかと思います。

私はウィル・スミスはジェイダを自分の所有物として扱ってはいないと思うし、大切にしていた物が傷つけられ失われようとしていたから怒ったのだと思うんですね。それこそがキャリアを賭けたとしても守らないといけないものだったと思うのです。

彼の行動は『妻を物として扱っている』からではなくて、むしろ『かけがえのない存在』だったからこその行動だったと思うのです。


●『黒人社会のナラティブ(物語)からの批判』



黒人社会のナラティブというのは、奴隷制度から現在に至るまで連綿と受け続けてきた黒人差別や偏見を、自分たちの行動によって無くしていこうという黒人全体が持っている意識の話で、有名人になるほど求められる黒人共通の感覚なのだそうです。

その視点から見るとウィル・スミスのした行為は、『黒人は野蛮で犯罪的で自分を抑えられず、すぐに暴力を振るう(だから差別しても仕方ない)』というメッセージと同じで、彼がしたことは黒人社会全体を貶める行為だったという指摘です。

正直これも、『人種差別』をそこまで自分事として見れない部分もあり、『そういう風にも捉えられるんだ』という驚きの部分が大きかったです。
日本にも様々な人種差別はあるし、その他の差別もたくさんあるけど、『見本になるべき立場なのにそうしなかった』という話ってほどんど聞いた事無かったですし。

確かに差別問題などは当事者でないと語れない部分もありますし、さきほどの『言葉の暴力』の話ではないけど、実際に経験してたり感じたりしてないと本当の意味で分からないと思います。

でもなー、とも思うのです。

確かにウィル・スミスがしてしまったことは暴力ではあったし、それがお茶の間に放送されてしまいました。

でもあの結果が、本当に『黒人にとってマイナス』にしかならないのでしょうか。

今回のことによってウィル・スミスが果たしてきたポジティブなイメージは全てひっくり返され、粗野で粗雑な犯罪者だったという評価になるのでしょうか。『ああ、やはり黒人は野蛮で、すぐに暴力をする人種なんだな~』となるのでしょうか。

私はそうは思わないんですね。

実際私は映像を見て、『奥さんを大事に思っているんだな~』と思ったし、むしろあの場で即座に行動できるなんてすごいなーとすら思いました。(ここはちょっと共感されないかもしれませんがw)

だってちょっと我慢すれば、オスカーという誰もが欲しがる名誉が待っていたんですよ。
それを全て投げ出して、抗議のために平手打ちしちゃうのは純粋にすごいと思ったんですよね。それを考え無しの短気だからって片づけちゃう人もいるけど(実際そういう部分もあるとは思いますが)、それまでのキャリア、地位と名声の全てを、そんな簡単にスルー出来る人はなかなかいないと思います。
(例えば宝くじ3億円当たった人が、帰り道にそれを棒に振る行為が出来るかというと、出来ない人がほとんどだと思います。ウィル・スミスが失ったのは多分その10倍でもきかない規模のダメージでしょう)

これまでずっとスマートでナイスガイのイメージだったウィル・スミスが、初めて起こしたといっていい暴力事件が『大切な人が傷つけられたことに抗議するため』であるならば、私はそれでウィル・スミスを嫌いになったりはしません。カッコいいなーと思うだけです。
多分、そう思うのは私だけではないと思います。

そして、その(ある意味ポジティブな)イメージは、黒人社会全体のイメージを良くするんじゃないかと思うんですよね。

もちろん、犯罪が賞賛される訳ではありません。普通にイメージダウンもあるでしょう。罪が問われる可能性だってあります。
でも、ウィル・スミスが今までずっとやってきた俳優としての仕事や、家族想いの優しい一面は、黒人のイメージをどれだけポジティブに押し上げたのだろうかと思うのです。

そういう事こそが語られるべき物話であり、人々の記憶に留まっていくべき物語なんじゃないかなーと思うんですよね。

ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)』"恵まれた者が果たすべき義務"という考え方もありますが、ウィル・スミスやクリス・ロックは多くの黒人にとって憧れであったとしても、その行動すべてに黒人全部の責任を負わされるべきではありません。

彼らが黒人の歴史を紡ぐ最先端にいるのは確かですが、その歴史の全責任を負っているわけではないのですから。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

とまぁ、思う事を長々と述べてきたわけですが、ここまで書いてきて個人的には、それらの指摘や反論は、そこまで重要な事だと思ってなかったりします。正直言ってしまえばただの言葉遊びのような気さえします。(えっ)

私が今回の騒動で興味深く感じたのは、それぞれが感じる『(基準とする)正しさの尺度が違う』という事でした。ウィル・スミスが正しいと思う人、クリス・ロックが正しいと思う人、フェミニストや黒人差別と闘っている人、それぞれが違う『正しさの尺度』を持ってきて、それぞれの議論のためにそれを使っていたわけです。

立場や価値観、向き合っている問題が違う人では、同じ物を見ていてもそれぞれ違う『正しさの尺度』があるのです。

そう考えると私の持っている常識(=普通の感覚と思っていたもの)というものが、いかにあやふやな物なのかが分かって、それが面白かったんですよね~。

そうして思ったのは、『自分の正しさの尺度を持つこと』ということがいかに大事か、ということでした。

・皆がそれぞれ違う『正しさの尺度』を持っている

・語りたいのは『騒動』そのものではなく、騒動を通して分かる自分たちの価値観や問題意識

・それは問題の本質を外しているように見えるが、実際私たちはそういう事でしか自分たちの価値感を確認することが出来ない

多分ここらへんが、本来私にとってはどうでもいい(失礼!)この騒動で、関心を寄せるに至った核心の部分なのではないかなーと思ったのです。
ここまで書いてきて、ちゃぶ台返しもいい所ですけどもw。



それで、改めて自分に問いかけるのです。

『自分の正しさの尺度は何なのか』と。


●私の正しさの尺度


前述したように、正しさの尺度を『法律』とするならば、その結論はかなり明確にクリス・ロックが正しいという話になるんだろうなーと思います。理由は上記で示した通りです。もしウィル・スミスが逮捕されるのであればそこに反対はしません。

ただ私は、『法律』を正しさの尺度として語ることは、少なくても私自身にとってはしっくり来ません。

ではどういう物がしっくり来るのか?

私にとっての『正しさの尺度』とは何なのか?
改めて考えてみると、それは


『自分に絶望しないこと』

これが私がしっくりくる正しさなのではないか
という結論になりました。

私はこの価値観に沿ってこの騒動を見ていて、その結果『ウィル・スミス(あるいは私)が正しかった』と言いたいんだなーと改めて思ったんですよね。

あの時。クリス・ロックの酷いジョークを聞きながら苦笑いをしていたあの時。ウィル・スミスはジェイダの表情を見て、唐突に選択肢を突きつけられたと思うんです。

それは『行動するか?しないか?』ということ。

『何をどうするか』ではなくて。
ただ純粋に行動するかどうかの選択肢です。


もし『行動しない』ことを選ぶならば、多分うまくいくでしょう。
ジェイダは多少がっかりしても後でフォロー出来るし、文章で抗議することだって出来る。元々、悪い事をしたわけでもないし。
それによって非難されることも多分無いでしょう。
残るのは、ただ『行動しなかった』という自分だけ。

もし『行動する』を選んだら、今まで積み上げてきたもの全てを失います。
いや、全部は失わないだろうけど、失うものは決して少なくはありません。
それでも決断するか、どうか。

そんなことが頭をよぎったか、よぎらなかったか。

限られた逡巡の時間。
時はそう長く決断を待ってはくれません。

そしてウィル・スミスは選んだのです。
『行動する』という選択を。


私はこんな想像をします。

ウィル・スミスは『あの時、行動していれば良かった…』と後に後悔する自分を許せなかったんだと思うのです。たとえ行動することでひどい結果になったとしても、行動しなかった自分の方が、彼には受け入れられなかったのだと。

そこには『法律』の正しさはありません。
逮捕される可能性だってあるでしょう。
もし行動できたとしてもジェイダとうまくいくという保証もありません。むしろそれが原因でダメになる可能性だって十分あります。

『行動すること』でメリットなんて一つもありません。
どう考えても『行動しない』方が正しい。

でも、それではダメだったんです。
その選択肢を選ぶ自分を、彼はどうしても許すことが出来なかったのです。

その結果、彼は行動することを選びました。
誰かを助けるためではなく、自分自身に絶望しないために。


というのが、騒動を見て思った事です。

お分かりの通り、これは私の価値観によって語られており、『本当はどうだったのか』という話ではありませんし、誰かを説得するものでもありません。この推測が真実だったと主張するつもりもないし、私の方がウィル・スミスを分かっているのだというつもりもありません。

私自身の『正しさの尺度』の話なんですね。
自分が行動をするときに何を指針にするのかという話。
あるいは『価値観』と言い換えてられるのかもしれません。

私はヘタレなのできっと作り笑いでやり過ごした後で、絶望してしまう。
でもウィル・スミスはその『正しさの尺度』では見事に私がしたかったことをしてくれたように感じたし、同時に同じ尺度でクリス・ロックを批判していました。
私のいない世界で、でも私の『正しさの尺度』は正確に騒動を捕えていたのです。それは『ジェンダー論』や『ナラティブ』の話と同じように。


きっと『騒動を通して見る自分』という目線そのものが、ある意味で問題の本質で、本当に自分にとって大事な事は、ジェイダでもウィル・スミスでもクリス・ロックでもなく、『自分の価値観の補強・表明』だったのだのです。

こうして書くとめっちゃナルシストやーんってなりますけどw、多分世の中にあふれる事件やニュース、悲劇や喜劇の多くは、同じ構造で成り立っていると思うんですよね。
ある意味、悲しい話ではあるんですが。

●『本当の正しさ』とは


ウィル・スミスが正しいという人、クリス・ロックが正しいという人。人種や所得層、知識階級など、あらゆる層にとってそれぞれ『正しさの尺度』が違うように、皆が持つべき普遍的な『本当の正しさ』なんてものは元々存在しないんじゃないかなーと思うんですよね。

便利的に『法律』だったり『社会道徳』だったりが存在するだけで、それらは『本当に正しい』から存在するのではなくて、『社会を円滑に回すため』だったりするわけです。
乱暴に言えばそれぞれの人が持っている『なんとなくの正しさ』の幻想によって世界は回っていて、誰もがそのあやふやな『正しさの尺度』に合わせる事でスムーズに生きているのが実態ではないでしょうか。(余談ですが、私はそうやって出来たものが『常識』だと考えています)

ただ、それと個人の『正しさの尺度』とは意味合いが異なります。
皆が求める『正しさ』が社会生活を円滑に進めるためにあるのだとしたら、個人が持つ『正しさの尺度』は自分自身で納得するために存在しているものだからです。

『道徳』や『倫理』、あるいは『信条』と同じで、自分という人間が、どうありたいかを規定するための物差しとして必要となってくるのが『正しさの尺度』なのではないかと考えています。

その『正しさ』は、時に一般的な正しさの尺度と外れてしまうこともあるでしょう。個人の『正しさの尺度』が必ずしも正しいわけではありません。
法律に反する場合だってあるし、道徳にもとることもあるでしょう。

だからこそ、その人がどういう『正しさの尺度』を持っているのかが大事だと思うんですよね。
普段は良い人そうに見られていても実は中身はそうでなかったというのはよくある話で、職業、年齢、収入などの外部的な要因に左右されずに評価される『正しさの尺度』は案外人を見る時に大事なファクターだと思うんですよね。

普段、それが人の目につくことって少ないと思います。
でも『その時』は突然やってきます。
その時露になる『正しさの尺度』こそが、その人の一番核を表していて、人となりが現れる場面だと思うんですよね。

多分ウィル・スミスにとってそれが、あの『ビンタ』だったのかなーと思いました。

あの騒動を見て、私はウィル・スミスがますます好きになったし、例え逮捕されてたとしても『ウィル・スミスは正しかった』と言うと思います。


なぜなら私にとって、それこそが『本当の正しさ』だから。


(ちくわ【どんぐり】)





【参考サイト】

(このテキストを書くにあたって参考にさせて貰ったサイトの一覧です)

●クリスロック発言はなんて言った?ひどいコメント内容全文の意味や海外の反応・その後は?(ANSER)
●クリス・ロックの発言内容は?海外での反応やウィル・スミスと共演の過去も!(毎日にほんのちょっぴりスパイスを♪)
●「ウィル・スミス平手打ち」擁護に見る日米の差(東洋経済)
●ジム・キャリー、自分ならウィル・スミスに「約240億円を要求する訴訟を起こす」
●ウィル・スミスを激怒させたクリス・ロックは「非言語性学習障害」だった(Newsweek)
●賛否両論のウィル・スミス「平手打ち事件」、そこに到るまでの歴史と文脈を徹底検証する(現代ビジネス)
●ウィル・スミスがクリス・ロックに強烈ビンタ!!二人は共演者であり長年の友人同士!?アカデミー賞授賞式から一夜明けてスミスが謝罪文を公開(GANGer!!!)
●クリスロックの発言が海外で擁護される理由「白人差別された倍返しが当たり前なアメリカの風習」(こねこのニュース調べ)
●Three in five Americans say Will Smith was wrong to hit Chris Rock(YouGovAmerica)
●「アカデミー賞平手打ち事件」で悪質なジョークを言ったクリス・ロックと平手打ちしたウィル・スミスはどちらが支持されているのか?
●ウィルスミスさんの行動は正しいかどうか日本とアメリカでの違いが話題(これ知っておけばOK!-誰でも簡単に分かる!)
●ウィル・スミス、結婚生活を立て直すために2年間休業していた(BAZAAR)
●ウィル・スミスの妻ジェイダ、ついに不倫していたことを認める(BAZAAR)


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