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【紀行】福島浜通りの旅〜復興とは、元通りの姿に戻すことなのか?伝承館編〜

5年前に福島を訪れた時はまだ常磐線が冨岡駅までしか繋がっておらず、隣の夜ノ森駅から先は立ち入ることができなかった。

そこから月日が流れ、常磐線も全線開通した今の福島を見ようと思い、常磐線をひたすら北上する旅を決行した。


福島原子力発電所にほど近い双葉町に、地震や津波、原発被害を後世に伝えるための「東日本大震災・原子力災害伝承館」というものがある。
津波や原子力建屋の爆発映像といった衝撃的な映像を交えつつ、被災者、行政、その他関係者へのインタビューや、諸々の物品展示、そして除染作業の流れやそもそもの原発の歴史や仕組みについての説明で、早足でも2時間があっという間に過ぎていた。

小学六年生の少女が示した”安全神話”への疑問

宿泊施設の目の前に建てられている為、午前10時でもそれなりの人が来訪していた。

印象的だったのは、震災前に、原発について小学生が描いたポスターだ。
4点のポスターが並んでおり、そのうちの3点は原発の安全性、さらには雇用を生み出すとともに日本経済の発展を支えるのに必須である電力を支える輝かしいものだという事を訴求したもの。確かに町中に原発を良きものとする大きな垂れ幕がかかっていたらこのようなポスターになるのが一般的だと思う。(福島だけでなく、恐らく多くの小学生が原発の危険性について考えを巡らせたことはないだろう。)

震災後に見つかった「アトムふくしまかばん」
原発がヒーローのように捉えられていたことが窺える


その中で一際目を引いたのが、震災前に小学6年生の少女が描いたものだ。
電気が灯り、人々が笑顔で生活する明るさを描く一方で、その下には黒い塊がスヤスヤと眠っている。原発が”安全神話化”されていた中で、若干11、12歳の少女が原発の本質をついた、まるで今の日本社会に訴えかけるようなポスターだと感じた。

「高校三年生の息子に初めて買ったスマホで撮影された動画は津波の映像だった」

伝承館の中に1日に4回、語り部の人が当時の記憶を話してくれる定員20名程の小さな部屋がある。訪問していた時間にちょうど語り部の会が始まろうとしていたため、生の声を聞きたいと思い何がテーマなのかも分からず、とりあえず席についた。

2.3分程して現れた女性は、震災当時に福島県いわき市久之浜町に住んでおり、当時一番下の息子さんが大学受験を終えて無事合格発表をもらったばかりの高校三年生だったという。女性が語りだしてまもなく、ある一つの映像が正面のスクリーンに流れ始めた。それは、大学の合格祝いに息子に買ってあげたスマートフォンで初めて撮影された動画だった。久之浜の海岸に津波が押し寄せ、黒い波とともに木々や家や車が押し流されていく。津波がすぐそこまで押し寄せていることに気づかず歩いている人に、カメラの後ろ側から「早く逃げろー!」と必死に叫んでいる声が聞こえる。人々の緊迫感に包まれた空気を飲み込むように、津波のゴォォォォォォという激しい波の音が鳴り響く。引き波になると一気に色々なものを海へとかっさらっていく波の脅威に声が出なくなる。津波の映像は見慣れているはずだったのに、館内の温かさを拒否するように悪寒がし、鳥肌が立った。

震災当時、私は小学六年生で、共働きの両親が会社から徒歩で帰ってきたのは22時を過ぎていた気がする。学校から親が迎えに来られない子供たちだけで集団下校させられ帰宅した16時頃から6時間、テレビでは終始津波の映像が流れていた。夜になると福島原子力発電所の様子が頻繁に映し出されるようになった。家で一人、リビングの天井まである大きな本棚から落ちてきた本を戻せずに、そのまま机の下でテレビから流れ続ける映像から目を離すこともできず、ただ見続けていた。そうやって映像としては見慣れていたはずなのに、どこかの定点カメラの映像ではなく、その場にいた、その時をその場所で目の当たりにした人の生の声が入っている映像は、それまで見てきたどの映像とも違って見えた。怖かった。津波に対しての恐怖感を、スクリーンを通して味わった。

久之浜の話に戻ろう。
この語り部の人の話がとても印象的なもう一つの理由が、たまたま前日に久之浜を訪れていたからだ。
行きの高速バスが渋滞にはまって1時間以上遅れ、極限までおなかを空かせていた私は、海鮮を求めて久ノ浜駅に降り立ったのだ。結局営業しているはずの海鮮丼屋さんには「CLOSED」の札がかかっていて、営業終了しているはずの隣のカフェの優しいおばさんがうどんを振る舞ってくれたので私の胃袋は満たされたわけだが、その後に辺りを散策していた場所が尽く映像に映っており、「あ、12年たって人が入れるようになって、ようやくここまできたのか」と思ってしまったのだ。海岸線の松の木から落ちたであろう松ぼっくりがやけに小さかったり、舗装されたばかりっぽい道に植わっている木が私と同じ身長くらいしかなかったり、それはこの辺りに住んでいた人が復興への願いとそこで亡くなった人への慰霊の気持ちを込めて植樹したものなのだという話を聞き、やけにリアルだったのである。

久之浜の小高い整備された道から見えた、青い海と植樹して間もない松の木々

伝承館の立ち位置

ここから先はあくまでも私の主観である。
反対意見も不快に思う人もいるかもしれない。が、ここで感じた私なりの伝承館の立ち位置を、きちんと今の言葉でまとめておく必要があると思ったので記したい。

確かに、原発の仕組みから原発と共に発展してきた町の姿、原発に関わって生計を立ててきた人々の息づかいをそこには感じた。
しかしそれは同時に、原発の安全性に対する過信の表れではなかろうか。
全体をじっくりと見終わった後に感じた、あの妙なすっきり感。
「もう復興しましたよ」とでも言いたげな、あの場所だけで完結されている雰囲気に、ざらついた感触が残った。
むしろ、場外に展示してあった読売新聞の記者たちが撮影した当時に避難している人々の切羽詰まった表情や泣き崩れる姿を写した写真の方が、よっぽど現実だと感じた。

場外の読売新聞記者によって撮影された写真たち

ただの小娘の戯言なので、もしも御関係者のかたがお読みでいらしたら心の中で批判してください。議論は好きなのでいつでもお待ちしております。

伝承館編、終。

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