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【寄稿】大切にしたいこと/妙心寺長慶院・小坂興道さま

 私はお寺の活動以外では「わらべ地蔵を被災地へプロジェクト」という名前でしている東日本大震災の被災地支援活動と、NPO法人京都自死・自殺相談センターの活動に関わっています。
 どちらにも共通することは、理由や状況は違っていても、人生に関わるレベルで苦しい思いや生きづらさを抱えていらっしゃる方との関わりがあるということです。
 被災地で出会う方は、元より誰かに相談したいと考えているわけではなかったりします。それでも他愛ない話をしているところから思わず誰にも言えずにいた気持ちを話されることがあります。恰もどこかで抑えていた気持ちが出口を求めて溢れ出す様です。その気持ちを逃さず受け取ることに気を付けています。そこで気持ちを逸らされてしまえば、その気持ちが再び表に出ることはもう滅多にないことと想像できます。
 自死・自殺の相談の現場でも同様です。こちらは相談することを前提に相談センターに繋がってこられますが、そこに至るまでの葛藤や煩悶の時間や振り絞った勇気を思います。相談者は漸くの思いで相談機関に繋がって、しばしばそこの相談員の対応に傷付いていることがあるからです。抱えている思いは顧みられずに、事情聴取に終わったり見当違いな説教をされたり。これでは相談しない方が良かったと思われても仕方ありません。だから私は、まずはその方が今どういう思いでいるのかに集中します。まさに血を流しているかのようなその気持ちを前に躊躇する暇はありません。それは転んで膝を擦りむいて泣いてる子どもに「大丈夫!?」ととっさに駆け寄る時の心情と似ているかと思います。

 さて、Hey!Bouzに寄せられるリクエストの一部にもそうした痛みを伴うような人生相談があります。僧侶側がリクエストに応募する時にはユーザーにメッセージを送ります。
 それはユーザーとのファーストコンタクトになります。私はそれをとても大事に考えています。被災地で会う方の様に、相談センターに繋がってこられる方の様に、私の一言が傷つけるものになるか、繋がって「ああ良かった」と思えるものになるかの分かれ目だからです。リクエストのメッセージに読み取られるユーザーの気持ちはどこにあるのか、僧侶との出会いに何を期待しているのか。それを踏まえて、たとえマッチングで選ばれなかったとしても私のメッセージを読んだ時に「こんな言葉を掛けてくれる僧侶もいるんだな」と少しでも安心してもらえるようなメッセージを届けられたらと考えています。長文になりがちなのが困ったことですが(笑)
 活動の場面はそれぞれ違っていても、私が僧侶として出会う方との間で大切にしたいことは、つまりそういうことなのだなとこの寄稿文を書くに当たって再確認しました。

〈運営担当者から〉 
 悩み相談のリクエストをいただいた際の、僧侶さまのユーザーさまへのメッセージから、運営担当の私はいつも勉強させていただいております。

 心理的な支援をする仕事に携わる際、ある程度の時間をかけて教育を受けます。臨床心理士なら大学→大学院の6年間(公認心理師は今は様々な条件のルートから)ですが、実習や現場での経験を積み、専門家として洗練されてゆきます。
 小坂さまのように、僧侶の方で相談事業に携わっている方も多くいらっしゃり、その際の訓練や教育はどうされているのだろう…と気になってはいました。心理職みたいな決められた教育を受ける義務はないでしょうし、相談を受ける中で自然に経験を積まれたり、ご自身なりの実感を伴いながら、自発的に研鑽されていることと思います。
 ただ、これは心理職にも言えることですが、教育を決められた期間受けたとか、何100件もの相談をこなしてきました!というだけで「全ての人を救えるはずだ!」と自信を持ってしまうのは危険です。また、自分も同じ辛い思いをしたことがある、という感情が先に立ってしまうのも危険。
 そういう人は、“相談を受けている自分”に酔っており、相談を受ける側よりも実は共感力の高い相談者はそれを見透かし、傷付いたり、離れていきます。
 自信がなさ過ぎても、相談者に気を遣わせることになったり、質問責めにして疲れさせることになったりします。
 小坂さまのように【私の一言が傷つけるものになるか、繋がって「ああ良かった」と思えるものになるか】を常に頭の隅に置いて相談者と向き合うこと、これが前提になければかなり危険です。

 Hey!Bouzの僧侶の皆さまの、ユーザーさまへのメッセージや、私との業務連絡のやりとりは、淡々としている中にも、相手に余計な気を遣わせまいとする隠れた気遣いがみてとれます。その気遣いのおかげで、安心できたり心地良さが感じられるのです。
 ただ、逆に考えると、こちらが安心できたり心地良いと感じられるのは、相手の気遣いがあってこそなのです。そのことをすっかり忘れてしまい、気遣いの上にでーんと乗っかっているだけになってしまうと、気遣う側の負担が積み重なる一方で、やがて関係は崩れます。
 その関係が崩れないために、ある一定の距離を保つこと、決められた時間や料金や場所が守ってくれているということ、そして気遣いに気付くということが必要になってくるのです。

 しかし、僧侶さまが受ける相談と、心理職が受ける相談はまた背景や基盤とするものが異なるので、私としても折り合いをつけるのが難しいところです。


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