その姿を見ている
「もっと危機感を持って欲しい」
「もっと関心を持って欲しい」
そうは言われても、実感が伴わなかったり、興味がないものや自分にとって重要度が低いものには心を寄せることはできません。
ましてや人から強要されるものではないし、ないものを「なんで持てないんだ」と責められても「と言われましても…」と困ってしまいますよね。
逆に、責めるということはこちらが相手に過剰に期待をしてしまっている(自分と同じくらい危機感・関心があるはずだ!)ということなので、バランスが悪いように思います。
自分と相手・自分と世間では、自分が思っている以上の感覚のズレがあります。
「普通は〜」「一般的には〜」「常識的に考えて〜」という言い出しから始まったり、他人に対して「ちょっと変わってる」「なんか変」というのも、まるで自分自身が世界の中心でそこそこまともに存在しているかのような物言いで、あらためて見直したらなんだか違和感があります。
そのまた逆で、少数派であることを誇りに思うのは構いませんが、一方的に理解して欲しいと主張を投げつけてきたり、多数派やまだ理解できていない人を批判するのも意味のないことのように見えます。
この反対の在り方がちょうどいい感じになるには、意外と難しくないのでは?と最近は思えてきました。
関心を持って欲しいとき。危機感を持って欲しいとき。
それはただ、自分が関心のあるものに一生懸命になれば良いだけのことなのです。ただ夢中になって楽しんだり、気になることを常に忘れないでいるだけで良し。ただ黙々とやっていれば、周りの人が不愉快な思いや悲しい思いをすることもないはず。
そしてそういう姿は、「なんだか楽しそうだな」「一生懸命で応援したいな」「一緒にやってみたいな」と、言葉で主張している時よりも、周りの人の心や行動が動き出すものです。
関心を持って欲しいなら、危機感を持って欲しいなら、自分から興味を持って、危機感持って、思う通りに動くだけでいい。言葉を並べている暇があったら、自分が動いてその姿を晒せば良い。
こんなに単純で簡単なのにできないことって、本当に多いですね。
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