2023.10.8 日比谷野外音楽堂
これから書く自分の行動は、道理に反している。けれども、葛藤の上で天秤にかけたとき、本当の気持ちを残したい自我が勝った。コンプライアンスが叫ばれる昨今、問題行動と叩かれて然るべきだが、とりあえず書いてから考えようと思う。
日比谷公園を出た私は、先述の通り、あの空気を感じない場所を求めて、しばらく歩いたビルの地下へ降りた。カフェに入ると電源があった。電波も入る。ここで配信を観ようと腰を据えた。イヤフォンをしていて気づくのが遅れたが、ふと周りを見回すと客がいない。その違和感から調べた営業時間は、17時閉店。16時50分のことだった。
慌てて店を飛び出し、地下から地上へ。建物の前にあったベンチで、配信を受け入れる準備を整えた。17時、映像は始まらない。でも私の耳、いや身体には音が響く。何ごとが自分の身に起こっているかは、咄嗟には理解できなかった。ずいぶん歩いてきたつもりが、野音の音はここまで届いていた。
フラフラと音の聞こえる方向へ足早に歩いた。自分がどこを歩いているかもよく分からない。ご遠慮ください、なのは分かってる。ただ音の聞こえる方へ、本能的に足が動いた。
周囲には誰もいない。少し離れたところに人影は見える。そんな場所に腰を下ろした。最良の音質でも最良の環境でもない。野音のてっぺんから空に向かって突き抜ける音。MCはこもって聞き取れない。音は感じる。手元のスマホに目をやると配信が始まっていた。音がズレる。画面を消した。
そんな感情なんて、わざわざ公にする必要もない。ただ今の私は、どこに着地したいのか。自分の中でだけ整理する必要はあった。でもどうやって?自問自答では脱せない負のスパイラル。結論するためには、何をしたらいいのか。はたまた、何もしなくていいのか。
野音の1曲目として聴く『地元のダンナ』が好きだ。音源だけではこの曲の魅力に気づけなかった若輩者にとって、野音だからこそ自然と入ってきた歌詞。ちっぽけな生涯かもしれない。でも世界中でたったひとつだけの人生。
正論っぽさであったり、うまくみせかけた優しさであったり、その本質に気づいた時の違和感。うわっつらだけ良く見せようとする空気にとにかく嫌気がさす。自分の気持ちに正直であるために歩く裏通り。私にはこっちの方がしっくりくる。宮本には嘘がつけない。見抜かれてる気がした。
『武蔵野』=『野音』。肌で感じる風が必要な曲。この日はやたらと力強く聴こえた。現状を幻と思いたいのか、そう思いたくないのか。
自分に正直でいられてるかい?そう問われてる気もした。正直であることが正しいと思う時期もあった。必ずしもそうとも言えない局面にもぶち当たると、この気持ちは途端に失速し、自信のなさが露呈する。そしてこれは大抵の場合が無意識だ。そこから改めて自分を信じるためには、ある程度の根拠が必要となる。
たくさん笑えば、涙が出るなら
たくさん泣いたら、笑えるのかな
四星球の妖怪泣き笑いにも通じる。誰かが言ってただけで、本当かどうかは自分で確かめるしかない。
なぜ今、この曲なんだろう。なぜ今、これを聴かせてくれたんだろう。改めて配信の映像を観たら、宮本は泣いていた。ほんの少しだけ、うわずった声。なぜ今。なぜ涙。理由なんてわからない。知ろうとも思わない。ただ自分には必要な感情の変換だった。
はじまりは今。過去にすがり、囚われることではない。今だと認識することが、私を突き動かした。
偶然聞こえたリハ音は『パワー・イン・ザ・ワールド』と『友達がいるのさ』だった。『パワー』は5本の指に入るほど野音で聴きたい曲。縁がなく体感できぬままだが、『友達』のフレーズが聞こえた途端、もう立っていられなかった。強すぎる『パワー』のエネルギーはもってのほか、この時の自分に『友達』を受け入れられるだけの精神力はなかった。だから逃げるように離れた場所を探した、はずだった。
『武蔵野』と並んで野音の代名詞でもある『シグナル』。宮本のまっすぐな命令形は、いつだって情熱と優しさが表裏一体なんだ。
この曲について書こうとした途端、まったく筆が進まなくなった。公開が今となったのは、時間をかけたわけではなく、単に言葉が出てこなかったから。今も出てこないのだから、どんなに時間をかけても、どんなに待ってみても、これ以上は何も出てこないだろう。
ただ、この曲がとても大切であることは間違いない。特筆せずとも、この曲に魅了された人間ならば、誰しもが感じること。私ごときが説明する必要など、そもそもとしてなかった。それに気づいただけで充分だ。
この世を統べてるのは心。さっきまで、歩くのはいいぜ、止まったっていいぜと、我々を巻き込んで己の道を歩いてたはずのヒーローが、唐突に太陽目指して駆け抜けていった。その疾走感たるや、振り落とされないようにするのがやっとだった。
『花男』のあっけらかんとした、堂々たる明るさが、すべてをひっくり返した。自分は何に行き詰まっていたんだろう。それすらも思い出せないほどに。
ごもっともだ。
終演後に話した友達の言葉が忘れられない。
「スマホ、充電する必要なかったんだね」
正しい行動だったとは思っていない。正当化するつもりもない。でも確かに友達が言う通り、スマホを充電する必要はなかった。そのままを感じ取る必要はあった。さらに彼女の言葉を思い出す。
「エレカシは対峙」
この植え込みを眺めながら、空から降り注ぐ音に集中し、ただひたすらに耳を傾けた。ライブでありながら、視覚情報はこれだけ。あとは、自分の想像力と、今まで積み重ねた、自分にとってのエレファントカシマシを思い浮かべ、あるがままの気持ちと向き合う。対峙、つまり彼らとの一騎打ちこそ、この時の自分にとっては、中に入ること以上に重要な作業だった。
植え込みの先に目を向けると、野音に背を向け、リズムをとる人影が見える。また別の方向を見ると、傘をさし、微動だにせず、じっと立ち尽くす人影もある。恐らく私同様、自分にとってのエレファントカシマシと対峙する人々だったのではないか。直接交流だけがすべてではない。憶測に過ぎないが、そんな御同輩と心の中で固い握手を交わした。
もしも願いが叶うなら、この外聴きという文化は、どうか廃れないでほしい。家で音源を聴くのと何が違うのか。それは、この場に居た人間としか分かち合えないし、説明するつもりもない。無責任にも程があるけれど、自分には必要で、とても大切な場所。
ここ数ヶ月、ずっと押し殺してた感情。なにがどうと具体的に説明できないまま、自分の殻に閉じこもったままだった頑なな感情が、ゆっくり少しずつ和らぎ、変換した。もしかしたらこのまま、結論めいた方向へ歩き出せるかもしれない。
デビュー35周年おめでとうございます。
エレファントカシマシという音楽と共に歩み、時に立ち止まり、時に駆け抜ける普通の日々が、いつまでも続きますように。
紅白歌合戦、ドーン!とお願いします。
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