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6羽「3カ国目・中国・China1」

中国に入国するためのビザは、香港の宿でとれた。

しかし当時の僕は、中国へ入るのにビザが必要だなんて知らなかった。
いや、それ以前にビザというシステムのことすらよくわかっていませんでした。

これから中国へ行くというと、香港の宿「ラッキーハウス」の例の胡散臭いおっちゃんが「おれがビザとってやる。パスポートもってこい。」と言ってくれた。純粋な親切心だった。しかし僕は恩を仇で返すような、検討違いの勘違いをした。

広東訛りの英語だったという言い訳を加味したうえでもひどい勘違いで、「だからなんで中国行くのにピザとらなきゃいけないんだよ!ピザなんて食べたくないって!」という意味のわからない返事をした。し続けた。

<これはローマで食べたピザ。イメージ画像。これで国境は渡れない。>


「ノー!ユー!ニード!ビザ!」

「ノーノーノー!アイ!ドント!イート!ピザ!」

同室のイギリス人(いやアメリカ人だったか?)が爆笑しながら仲裁にきてくれるまでこのやりとりは続けられ、なにと勘違いしているかに気付いたおっちゃんは笑って許してくれた。ということはなく、「こいつホンマあほやな。大陸でえらいめにあえばええのに。」と言いたげな目で僕をみた。僕はその視線を甘んじて受け止めた。そしてビザというシステムを知った。僕はひとつ賢くなった。

そうしてピザを食べることなく中国行きのビザを手に入れた僕は、国境を越えるバスに乗り、香港の目と鼻の先にある中国の町「広州」へ行きました。

はじめての国境越えは、残念ながらほとんど記憶にない。確かバスの中でパスポートをドライバーに渡し、座って待ってたら勝手に許可をとってくれていた。そんな感じだったと思う。出発から4時間程度で、広州に着いた。町並みは香港とたいして変わったようにはみえなかったけれど、人は大きく変わった。まず、英語がほとんど通じない。そして人の話し方もだいぶキツくなったように感じられました。

「だからビザだっつってんだろ!ビザだ!ビザ!!」とあれだけキレていたの香港のおっちゃんよりキツい気がした。僕は景色ではなく人から、「あぁ中国へきたんだ」と実感しました。

そしてこの日からしばらく、僕はえらい目に合い続けた。香港のおっちゃんの期待通りだ。呪いでもかけられてたのかもしれない。

まず、広州で泊まろうと思っていた宿がつぶれていた。

そしてこれは自分でかけた呪いだったが、リュックが死ぬほど重かった。

日記は無印良品の文庫ノート2冊だけ!としていたくせに、僕は小説の文庫本を80冊くらいもってきていた。

「だってだって、外国で日本の本が手に入るなんて思わないじゃん!」

という21歳の僕の言い訳が聞こえてきそうだが、もう愚かとしか言いようがない。日記は2冊、パンツも2枚、靴下も2足だけ、なのになんで小説は80冊なんだ?数を数えられなかったのだろうか。

自虐はともかく、文庫本80冊の重みで肩をつぶされそうになりながら、僕はつぶれた宿の前に座り、途方に暮れた。意気揚揚と香港を出た初日から早速、途方に暮れた。暮れるのがはやすぎる!そしてこういうときは陽が暮れるのもはやい。容赦なく暮れていく陽に気づいてパニックになった僕は、一番やったらいけないことをした。そう、客引きに頼ったのだ。

あとから他の旅行者に教えてもらったのだけど、当時の中国ではユースホステルに泊まるのが一番清潔かつ安価で、困ったらとりあえずユースホステルに行けばいい。というのが中国における当たり前の旅行事情だった。広州にもユースホステルはあったし、香港で会った日本人旅行者にもらった「地球の歩き方」もあった。(文庫本は80冊ももってきたくせに、ガイドブックはひとつももってなかった。)しかしそんな情報をひとつも知らなかった僕はこの「地球の歩き方」をまったく活かすことができず、どこへ歩いてゆけばいいかもわからず、暮れるゆく陽にあせって見るからにあやしい客引きに頼ってしまった。まさにネギをしょったカモ。「お助けぇぇ」とすがりつく僕をみて、満面の笑みを浮かべる客引き。大量のホンをしょったバカは、ここから恐怖の宿へ案内されることになってしまった。

「わかった、おれにまかせとけ!いい宿知ってるぜ。ついてこい!」
というようなことを中国語で言われ、大人しくついていく。細い路地を右へ左へ曲がりながら、どんどん人気のない場所へ連れていかれる。不安になってきたのも束の間、小さなデパートへ入っていく。なんでデパート?まぁさっきの路地より人気はあるからいいかと思いながらさらについていくも、デパートが営業していたのは1フロアの半分だけ。奥はぜんぶ空きテナントになっていた。ガラガラのテナントをいくつも通り過ぎ、非常扉を開けて非常階段を上る。
「あ、これはあかん。」
とふつうならこの時点で思っただろうが、僕はすでに正常ではなかった。荷物の重さに体力尽きかけながら、完全に登山状態に陥っていた僕は、目の前の客引きにただただついていくことしかできなかった。非常階段はいつのまにかどこかの団地のようなマンションの階段につながっていて、階段の踊り場には鼠の死体から猫の死体までころがっていた。階段と階段の間には鉄格子があり、もはやバイオハザードの世界のようだった。どこかの部屋からゾンビがでてきてもおかしくない景色だ。そんなマンションの階段をふらついた足取りで上がっていく。いや、もしかしたらおれ自身がすでにゾンビなのかもしれない、と思ったかどうかは覚えてないが、僕が本当にゾンビになってしまう前に、なんとか宿に到着した。もはやここが何階かもわからなかった。やっとこさ着いたその宿は、まさに団地の一室。看板もない。表札もない。あるのは無機質な鉄の扉が一枚。そう、そこは宿とは名ばかりの、ただの客引きの知り合いの「家」だった。

「袁丹洋」と書かれたカードを渡され、「ほら、宿だろ?」というような顔をした客引きは70元の代金を受取り、去っていった。1元のレートは当時15円。1泊1050円を高いと思うか安いと思うかは人それぞれだろうけど、清潔・安心・英語も通じるユースホステルはどこも大体20~30元。つまり僕は無許可の闇宿で、倍以上ぼられていた。

髪の毛をカールさせるためのプラスチックを頭に10コくらいつけた寝巻き姿のおばちゃんに、部屋を案内される。とりあえず個室だけど、窓の向こうは廃墟のようにひろがる無数の団地マンション。ここは7階だが8階くらいの高さのようだったが、見渡す限り同じような団地しかみえない。そしてすべての窓にはもれなく、鉄格子がついていた。怖くなった僕はトイレもいかずシャワーも浴びず、とりあえず扉の前にバリケードをつくった。

<呪い発動期間中の写真はほとんどない。撮る余裕もなかったのでしょう。これは中国とラオスの国境あたりで泊まった宿。これを4、5個積み上げて、20年分くらい老朽化させれば「袁丹洋」のできあがり。>


窓の鉄格子も驚きだが、ひどいのはそれだけじゃない。なんとベッドの向こうの壁が全面、擦りガラス戸だった。ガラス戸の向こうは台所。これが本当に最悪だった。もちろん開かないようにはなってるものの、僕の姿は丸わかりだ。

丸わかりも問題だけど、もっと大きな問題が深夜2時にやってきた。

おばちゃんは突然台所に入り、なんとチャーハンをつくりはじめた。なんでチャーハンだとわかるかって?擦りガラスの向こうで中華鍋が降り上げられ、茶色い米が宙を舞ってるのがみえるんだ。チャーハン以外なんだっていうんだ?天津飯か?その可能性もあるのか?どっちでもいいけど、とにかくおばちゃんは深夜に米を焼きだした。困ったのは米を焼く音より、野菜を切る音より、煌々と照らされる明かりより、おばちゃんが台所に出入りするたび開け閉めするドアだった。

擦りガラスの戸は開かないまでも立て付けが非常に悪く、おばちゃんが台所のドアを勢いよく閉める度、衝撃でガラス戸も「バーン!!」という音を響かせた。台所のドアが「バーン!」そしたらガラス戸も連鎖反応で「バーン!」。いや、「ヴァーン!!」だったかもしれない。「ギャーン!!」だったかもしれない。毎度全部割れたんじゃないかと思うような爆音があがるたび、「ヒャァー!!」と悲鳴をあげそうになるのを必死でこらえながら、寝ては叩き起こされるサイクルを繰り返した。そうして気づいたら、いつのまにか夜が明けた。

ドアの内側につくったバリケードを取り除き、マンションの階段をかけ降り、まだだれもいない早朝のデパートを通り抜け、僕は広州の町へ戻った。

町へ降りたとき、僕はとても不思議な感覚におそわれました。いや、おそわれたというより、僕をおそい続けていたものからいつの間にか解放されたような感覚だった。ひどい熱が一瞬で消え去ったような、夢から覚めたような。

あそこは本当に現実だったんだろうか。わるい夢じゃないだろうか。なんだか変な空想世界にでも連れていかれたような感覚は、10年経ったいまもはっきり覚えています。不思議の国の夢から覚めたアリスや、トンネルを抜けて振り返った千尋は、こんな気持ちだったんだろうか。

たった1日で1話分になってしまった。なんて長い一夜だったんだろう。

中国は広い。とてもじゃないが、ひとつの話しにまとめられそうにありません。

書いていてまたあの宿を訪れたような気になり、すっかり疲れてしまいました。

とりあえず、ピザでも食べてゆっくり寝よう。つづきはまた来週。

おやすみなさい。



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