the gate

言葉を書けなくなってしまったことは、今も深く自分を傷つけている。初めて小説を書いたのは小学5年生、その前から詩や俳句は書いていて、読書感想文などで賞を取るようになり、全国大会にも行き、左利きだった私は初めて自分の右手を許せるようになった。文字が書けず、発声ができなかった時期がある自分でも、物語を紡ぎ、目の前に世界を創り出せる。創造ができる自分の右手のことを、深く信じるようになった。ずっと書き続けていたわけではない。それでも自分の右手は矯正を重ねた大切なパートナーで、書けなくなるまでは常に脳のドライブを動かすことができると信じて疑わなかった。

あなたは演奏をやめたことがあるから、きっとわかると思う。手が思うような目的を果たさないことは、深く深く自分を傷つける。自分が自分を裏切る事実は、静かな洞穴となり今も心の底に横たわったままだ。

書けなくなったことからの回復は、植物園のゲートとともにあった。1年間の時間をかけて、来る日も来る日もゲートを訪ねた。修行のようであり、迷走でもあり、無職の暇つぶしでもあった。祭壇でもあり、墓標のようでもあったが、本当はいずれでもないとわかっていた。「意味のないこと」を繰り返して、心に凪が訪れることを待っていたのだ。ある人は真っ新なノートをくれて、ある人は「あ」という一文字でも良いから書いてみたらと言ってくれたが、書けないものは書けなかった。青い、美しいノートは今も真っ新のままだ。

ゲートは、ずっと閉ざされている。あの扉を開くには、押すべきなのか、手前に引くべきなのか、あるいはよじ登るべきなのか、ずっと考えていた。錆びて朽ちるのを待つのか、体当たりするべきなのか。ある日ゲートを外側から見つめてみると、道路沿いにある、ただの偏屈なフェンスだった。殺風景な金属の額縁となり、植物園を美しく縁取っていたのが嘘のようだ。街中で、くたびれた昔の恋人を見かけるような景色だった。味気の無いフェンスに触れると想像以上に冷たく、かさついている。口の中まで金属の味がしそうだった。書けなくなった右手で、フェンスの皮膚を剥ぐようにして撫でる。これから先も私のゲートは開くことが無いのだろう、だったら閉じたままを受け入れるしかない。書けない自分を書くしかないのだ。

ゲートの写真はあなたの手で整えられた。
導かれるわけでもなく交差し、私の原風景にはあなたの手でゲートの奥に、光が射されたのだ。存在しない光が加味され、存在しなかったあなたと出会う。1年の月日をかけたものに、一瞬で鮮やかに色彩が増す。私の「意味のないこと」に、あなたが意味をくれたのだ。まだ左手で自由に書いていた頃の、幼い自分をあやし、抱きかかえるようにして届けられたゲートの写真を丁寧に丸め直した。

※このシリーズは3月9日・3月19日・3月29日・4月9日の4回にわたって投稿します



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