暗渠から見る月

私が国道沿いの住まいに暮らしていた頃、家をそっと抜け出してどの場所から見る月が最も美しいのか、観測を続けた時期がある。6歳頃の話だ。国道沿いの住まいの周辺にはガソリンスタンドやHONDAの販売店等があり、夜でもそこそこに明るさはあった。両親と同じ寝室だった私は、抜け出せるタイミングが来るまでじっと布団の中で待っていて、その時が来たら布団を這い出て、玄関を開ける。靴箱の開閉音を防ぐために、時には裸足で出ることもあった。真夜中の道路はひんやりとしている。冷気がアスファルトを根城にしている。きっと静かに眠っているのだろう。アスファルトのひび割れは夜に黒さを増し、血脈のようにも見える。裸足でその上を歩きながら、月を見る場所を探す。

制限時間は30分、どんなことにも一定のルールがある方がいい。不自由の中に自由を生む。制限は自由をかたどる額縁となる時がある。近所のダストボックスの上、〇〇ちゃん家の庭のブロック塀、月に最大限の敬意を示しながら気ままに観察地点を探すが、ある日気が付く。座って観ることに囚われているのだ。これではいけない。自分相手に負けている。気ままなことがオリジナルだと誤解をしていたのだ。用意周到、緻密に場所を決める必要がある。ある日、側溝の中は自分が入るならちょうど良い大きさであることに気付く。忍び込めるスペースがある場所を日中のうちに見つけておく。横たわった時にケガをしないように、異物を取り除く。多少のコケや虫は仕方がない、私と同類だ。真夜中に側溝の中に入り込み、そっと上を眺めると、視界左右に制限があるおかげで見応えがある。多少の砂埃や吸い殻は仕方がない。背中でずり這うように側溝の中を進む。髪がすり焦げるような音がするがお構いなく。アルミ製のグレーチングを視界に通してみる月は、格子の奥に浮かんでいる。監獄のような視界の先に小さく見える円状の月は、なぜか確実に私の手に入る気がする。グレーチングに指を引っ掛ける。重くて到底持ち上がることはない。いつか重苦しいこの格子を外して、あなたに出会える時はあるのだろうか。月と私の間には確実な隔たりがあるが、なぜ触れる日が来ると思うのだろう。息をひそめて眺めているうちに、制限時間の30分を超えてしまう。

パジャマに付いた汚れを払い、玄関前にあるホースで足を丁寧に洗い、薄汚れた温泉宿の名前が入った手ぬぐいで足を拭く。髪に絡まった蜘蛛の巣をつまみ、頬にへばり付いたガムを剥がす。玄関のすりガラスは月光を反射し、小さな幼児の私をモザイクにして映すが、そのシルエットは6歳の幼児ではなく、今の私のようだった。


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