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日々の哲学から哲学の日々へ

これから「日々の哲学」というオンラインの講座を始めます。
 
「日々の」というのは「毎日の」「日常の」といった意味合いがあります。哲学は難解で、晦渋で、深刻で、あまり面白味のない学問かもしれません。いや、そもそも哲学が「学問」であるかどうかもわかりません。
 
ぼくは長いこと、「医学と哲学」について考えてきました。
このことは同時に「身体と哲学」についても思考しなければならない機会を与えてもくれました。医学(医療)は特別なことかもしれませんが、身体となれば、これはもういつもの、日常の、当然のものであります。自身の身体の「存在」について疑う人はいないでしょうし、自分が自分であることに不信を抱く人はいないでしょう。
 
でも、本当に自分の身体は自分のものなのでしょうか。
あるいは「自分(の身体)であること」が自己であると断言することはできるのでしょうか。
 
小さな疑問は、やがて身体全体あるいはそれを含めた世界全体へと波及してゆくでしょう。「われわれの身体はわれわれが属するこの世界のもので、かつわれわれのものなのだろうか」といった問いが出てくることもあり得るのです。それほど、「日々」は問いの闇に覆われ、そして問いの連鎖のなかにあるのかもしれません。
 
人は1日に3万5000回の選択をしているのだという研究者もいます。それだけの選択をしているのであれば、その過程でいくつもの問いが生まれるのは必然でしょう。そして、たくさんの選択は、そうした問いにいちいち決着をつけて(あるいはつけたふりをして)なされていることになるのでしょう。日々息をしていることに疑問を持つ人はいません。しかし、「息をするとはどういうことか」「息の仕方にはどのようなものがあるのか」「息をしなくなったらどうなるのか」といったことを少しでも考える人は少なくないでしょう。
 
夏目漱石の「それから」の冒頭に「彼は胸に手を当てたまま、この鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像してみた。これが命であると考えた」という記述があります。主人公の代助は毎朝それを確認しなければ気のすまない人物でした。彼にとって自分の「命」を確認することが、まさに「日々の哲学」であったのかもしれません。
 
また、作家の小川洋子は「完璧な病室」という作品の中で「日常って、うすのろよね」と主人公に語らせています。毎日ルーチンにしなければならないことがあって、かつ日ごとに何かをしなければならない、この「しなければならない」ことは、日常という風景をずいぶんぼんやりさせたものにしてしまっているでしょう。
 
そんな日常の、ある種の軽さ(逆に重さといっても意味は同じでしょう)にひそむ不可思議(のようなもの)に思いを馳せてみたいと思います。
 
「日々の哲学」とは「あたりまえの哲学」であり、「哲学のあたりまえ」でもあるのです。

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