「愛を知る人というのは、取ることと与えることが一つであるような人間、取ることによって与え、与えることによって取るような人間なのだろう。」(ジンメル)

私の好きなジンメルの書(清水幾太郎訳)から一節を紹介する。

或る深さを持つ人間にとっては、人生に堪えるには、一般に一つの可能性しかない。即ち、或る程度の軽薄ということである。もし対立して調和し難い衝動、義務、努力、憧憬、それら一切を深く考え抜いたとしたら、また、これらの本性と彼の本性とが真に要求するままに、底の底まで絶対的に感じて行ったとしたらーー彼は飛散し、狂気に陥り、生命を捨てざるを得ないからである。或る深さの限界を超えると、存在と意欲と当為との線が強く烈しく衝突して、私たちを引き裂かずにはいないであろう。これらの線を限界の下まで来ないようにしておきさえすれば、生命の可能な程度に、これらに引離しておくことが出来る。これは、一元論的オプティミズムの説く、対立物の調和に到達するには何処までも深く対立物を追求して行けばよい、というのと正反対である。それとも、この見方は、対立物の内容的な客観的な意味では正しいが、その主観的に体験された意味にとっては話が別だというのか。(『愛の断想、日々の断想(岩波文庫)』p80 日々の断想 第60項)

この書は彼の死後に彼の女友達(愛人)が遺稿集として編纂したものだ。

文章自体はいまから100年くらい前に書かれたものだが、

この本を読むと、人類が何ら変わっていないことがわかる。

遺伝子情報よりも社会のあり方。

社会のあり方よりも個人の経験。

個人の経験よりも日々の気分。

日々の気分よりも言語の構造。

それがわれわれだと思う。

言葉を整えて、自律神経を整えて、

肥沃な大地の礎になりたい。









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