着物
着物。この場合、和服と言った方が良いかもしれないが、近年日本の民族衣装だとされる立ち位置の衣服。
おかしな話だが、民族衣装なのに正式に着られる人は少ないし、他人に着せるのはもっと難しいという、実に現実味のない、距離感のある衣服である。
その、着付け教室に通っている。振袖の着付けもできるくらいには、頑張っている。
そしてもちろん、他人が着ている分には、「素敵」以外、何も感じない。
自分はさほど似合う訳でもないのが残念ではあるけれど、訪問着で町に繰り出す程度には、日常使いの衣服である。
だが。
時に着物は、私自身の内部に、強い違和感を住まわす。その違和感を色に例えると、実にどす黒い。
なぜだろう。
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違和感とは、先生の指導中に感じることが多い。
例えば、ある日の先生の世間話。
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とても綺麗に着物を着ていたお嬢さんが、後ろから夕焼けで照らされて、きちんと襦袢を着ていなかったから、透け透けだったのよー
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そして先生は「あちゃー」みたいな顔をした。
ADHD気味の私には、その先生の「あちゃー」の顔が何を指しているか、もちろん、すぐには理解できなかった。その話の続きを聞いて徐々に
「なるほど、透けるのは、恥ずかしいことなのだ」
と分かった。
私には、着物が透けて恥ずかしいという意識がなかったから、驚いた。
その、若い綺麗なお嬢さん自身が恥ずかしいなら分かるが、なぜ先生が縁もゆかりもないお嬢さんのことを恥ずかしいと思うんだろうか。
一体、何が問題なのか。体の線が透けたら、男性が欲情するのか。
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先生は60代くらいの、見目麗しい女性。
先生は、息を吐くように「主人」とお連合いのことを呼ぶし、三歩下がって傅くように寄り添っている。
絵に描いたような、私の母世代の女性である。
先生と話していると、着付けというのはとどのつまり、
「周りからどう見られるか」
が、重要らしいことが透けて見える。
「こうすると、美しく見えますよ」
「男性の評判が良いですよ」
「お姑さんの自慢のお嫁さんになれますよ」
人権と尊厳を旗印に掲げる私はちょっとモゴモゴ口籠るが、まぁ良い。人間は社会的動物だから、周りの覚えめでたいのは大切なことだ。
しかし。
「透けたら恥ずかしいですよ」
「裾が割れていたら恥ずかしいですよ」
「胸元が乱れていたら恥ずかしいですよ」
ここは、見る側の問題であり、
さらに言うと、
着物に対するモヤモヤの中で、なかなか我慢しかねるのが、
「着てる人の心地よさが無視されているように感じる」
これだ。
真夏の盛りに体の凹凸を無くすためにタオルをぐるぐる巻く。暑い。
そもそも腰をギュッと絞るなんて、通気性が悪く熱が籠る。
機能的ではない。
着物は、まずは見た目の美しさがあり、その中で、少しでも暑くないように、と考えられているのがわかる。つまり、根本が誤っている。
これは、何となく、日本の中央政府の進めるいろいろなことと、通底している気がする。
例えば2020年東京オリンピック。オリンピック自体、もう時代に沿わない愚挙なのに、とりあえず開催することだけ無理やり決めて、その中でなんとかしようともがくから、合理的でないし、アンダーコントロールだ、アサリだ、日傘だと、次々と目を覆いたくなるような「アホかな」と思うような政策が真面目な顔して繰り出されるのだ。本は売れない、グッズも大量に余る、費用もかかり、その検証もなされず幕引き。なんのSDGsなのか。
この国には「英断」はあり得ないなと、チベスナの目になった私。
アベノマスクも、そうだった。元々の根本が誤っているのに、そこをなんとか押し通そうとするから、さらにおかしなことが起きる。
森友学園の問題も、総理夫人は私人閣議決定も、おかしなことが様々起こる。
つまり
「衣類」の観点で見れば、暑い時に風通しの良い服を、寒い時に防寒着を、という、そもそもの衣服の目的から、着物の造りが乖離しているのだ。それを言っちゃおしまい?
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さてその、周りの覚えめでたい、「美しい着物の着方」だが、この合理的とは言えない、規範のようなものは、私には、常に周りから降ってくるものだった。
外で立ち歩き食べはみっともない。
箸の持ち方、食べ方、指先まで美しく。
猫背はみっともない。
ブラジャーの紐が見えていたらみっともない。
下着がスカートやパンツに透けていたらみっともない。
座る時は足を閉じる。襖を閉める時は、直前で止めて音を立てないように閉める。
男の人に好かれる着こなしをする。
飲み会で取り分けする。
サークルの合宿で女子はお弁当を作る。
おっと、最後の方は、恨み節みたいになってしまって、本題とは異なることになってしまった。失敬。
ひとまず、淑やかに、品よく、立ち居振る舞い、食べ方、厳しく躾けられ、それは今思えば悪くないことではあった(子供の時は本当に嫌だったが)
でも、中には道理に沿わないことや、合理的で無いこと、人権的におかしなこともたくさんあった。
今ならわかる。その違いが。
それは
「男性ならokな振る舞いが、女性には許されない」「女性にだけ、厳しい規範」
例えば、前述の
「透けたら恥ずかしいですよ」
「裾が割れていたら恥ずかしいですよ」
「胸元が乱れていたら恥ずかしいですよ」
これらは、男性には言われないことなのだ。
幼い頃には気づかなかったが、確かに、みんなに平等に厳しくされているならまだわかる。食べ方などは男女問わず厳しいと感じた。
しかし、男性には許されて、女性には許されない振る舞いには、モヤモヤが残る。
女性にだけ、規範を押し付ける。男性は選ぶ側。まるで、ハーレムで寵姫争いするように、女性だけが美しさを競わされた。
勝手に値踏みされる屈辱。しかも、大したことないレベルの男性にだ。
値踏みされるだけならまだしも、性犯罪にもとことん加害者に甘い国なのだからたまらん。
着物を着付けていると、実感する。
まるで中世ヨーロッパの、女性だけを規範に縛り付けるためのコルセットなのだと。
大股で歩けないように、大きな仕草ができないように、思い切り体を動かせないように、息を思い切り吸えないように、こじんまりと、社会の隅っこで、声を潜めて小さく、御し易く生きる、着物の機能そのものがそのようにできているのだ。
女性の着物は、大リーグ養成ギプス、いや、チョコレートの型のようだ。女性は、誰かの求めるチョコレート像に、意思とは別に、外側から作られてしまう。
着物の着こなし、立ち居振る舞いの美しさは、女性の内部から湧き出たものではなく、須く、他者からの評価である。
評価なら、まだましだ。
女性を縛り付けるために、規範を作り、そこからはみ出たものを、はしたないもの、アバズレ、そして社会的地位のひくいもの、🟰粗雑に扱っても良いもの、として誰かのスケープゴートにされ、酷ければ抹消していく方向に向かっていたとも考えられる。
誰が?誰が抹消していくんだろう。中央政府から条例が出る訳でも、法律が制定されている訳でもない。
しかし、規範はまずは権力者男性が権力を持たないものを見張ることから始まる。
その後、見張り番は徐々に下に降りて、一般男性になり、
さらに、権力者女性、そしてそれがだんだんと広まっていき、一般女性同士でもお互いに監視し合うことになる。
先生の言う、「透けたら恥ずかしい」は、いや待って、透けたらそもそも恥ずかしいのか?誰が恥ずかしいのか?若い女性が恥ずかしいと思うなら自由だが、なぜ周りの人間が眉を顰めるのだ。お互いに、弱者同士を縛り合い監視し合うのが、美しい国なのか?
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私は、遠い昔、ブラジルのカーニバルに行った時のことを思い出していた。
ほぼ裸の男女がそこにいて、私は、「セクシーとはなんぞや」と考えた。そこまで行かなくても、初めて海の外に旅したアメリカで、カナダで、あの私を大きく包み込むような果てしない振る舞いの自由さに、目を白黒させた。
ブラジャーの紐が首周りから見えたり、
Tシャツから下着が透けたり、
浅い股上のジーンズから背中が見えたり、
ショーツがチラッと見えていたり、
こういう人がたくさんいて、それで周りが眉を顰めることはなかった。
みんな、他人のことに構わず楽しそうな姿。「そんなこと大したことない」どころか、「え、それって何か悪いこと?」と言った雰囲気。社会の成熟を、感じさせた。
それに引き換え、当時90年代の日本は、女性の振る舞いや身なりに厳しい国だったし、とにかく性犯罪に合わないように、身体をきちんと隠す必要があった。ポニーテールのうなじが欲情を誘うと、校則でポニーテールを禁止するような国。
ヌーディストビーチは、ヌーディストビーチに欲情しない人たちの社交の場である。
なるほど、男性が何に欲情するかで、私たちは自衛を求められるのだから、そもそも、男性が欲情するのが悪いんじゃないかな?
胸元や裾割れ、透けること、これらは恥ずかしいことではない。ただ、幼くAVに毒された日本の男性にとっては欲情できることだから、女性は自衛しなさいよ、自衛せずに性被害にあったら、自己責任ですよ、とまぁそんなことである。
当時はそんなことを言うと、アホを見る目で見られた。まだ、性犯罪被害者の方にも落ち度を問うようなレベルの社会だったし、現在だってその線ではまだまだヒヨッコだ。
外国を旅する、または生活する中で、日本の規範が必ずしもマジョリティではないと知った。日本の男性がなぜいろんなことに欲情するのか、謎である。
そんな社会から、自衛を求められるのだ。窮屈でない訳がない。
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この、窮屈な感じは、世代や地域でも異なるかもしれない。
でも、少なくとも、2023年、着付け教室の先生が発する言葉の1割は、私にはモヤモヤ感じてしまう。
女性が、自由でないころの、衣服を身に纏いながら。
こんなことを考えなくて良い属性の人のことを思いながら。
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では、お前はなぜ、着物を着るのだ?
そんなに嫌なら、着なくていいじゃないか。
お金を払って着付け教室になぜ通う?
なにしろ私は、何事も経験してみなければ気が済まないタチなので。
まだ女性に人権がなかった、いや、人権意識すら無かったころの衣服。
まだ女性が自分を持って生きられなかったころの衣服。
基本的人権を憲章として共有していなかったころの衣服。
天賦人権論を知らなかったころの衣服。
女性自身に、男性と同じ権利を求めようとする自発性すらなかった時代の衣服。
着物を着ていると、衣服に現れた歴史をしみじみ感じる。衣服の歴史は常に闘争の歴史であった。
それを、体験して良かった。
伝統庇護という名のもとで、当時の常識である差別と、人はどう折り合いをつけていくべきか。私はラディカルではないから、セントアンドリュースでも相撲の土俵でも、富士山でも、当時の権力者男性が作った「女人禁制」が伝統になっているとしたら、それをすぐにでも現代風に改革することを求める立場ではない。どんなにその伝統が非科学的であり、非合理的であっても。
ただ、このままで良いと言っている訳では決してない。私の旗印はhuman rightsとdignityだ。これを最優先に考える。セントアンドリュースにも、土俵にも、女性が入れるようにしたい。
私が保守であるただ一つの理由は、ラディカルの後には必ず反動が来る、それだけだ。
宗教改革も、フランス革命も、とにかくあの草も生えないような反動は、最も恐ろしいことの一つ。例えラディカルが弱きもののための改革だとしても、その後に起こる反動により、弱きものが虐げられ、そこにhuman rightsもdignityもかき消されてしまうからだ。
相撲の土俵に上がれる良き方法を、考えで行く、それが民主主義なんじゃないかな。
などと、着付け教室中に、つらつら考えた。暇人である。
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