音(からだの声)で司る世界~主体的選択のもつ力~

頭の声、こころの声、からだの声、があるのは、わかっていただけるだろうか。
idea、思考、考え、これが「頭の声」
感じていること、そのものつまり感覚が、こころの声
おこっている、とか悲しいとかそれはすでに言葉での表現に置き換わってしまっていて、その人、その存在自体が感受しているものとはすこし、その人、その存在がもっている思い込みによって左右されてしまう部分も大きく、必ずしもそれ自体が「こころの声」とはならない。そこは微妙な違いなようでいて、まったくもって違うことになってしまうほど、大きな違いがある。
感じていること、こころの感覚が「こころの声」だ。
すこしその違いが難しいかもしれないので、そのあたりはまた改めて書き記していけたらと思います。


そしてからだの声、
このからだの声と、こころの声は、感覚するものという時点ですこし似ているものと勘違いされてしまいそうだけれど、
似て非なるもの、まったくことなることだ。

そしてもう一つ、わたしがたびたび、音、と表現するところ。
これは、存在そのものの、生命の響き、女性なら子宮の声、というものとも近い。けれどそこに、エネルギーやオーラそのものとのつながり、連動をもっている動きそのもの。
また、からだの声に耳を傾け、受け止め、それに対して主体的に、言動を積み重ねていることによって、音が世界とのつながりとなり、主体的言動そのものが、音そのものと連動してゆくことになる。

一度丁寧に記述した、からだの声と音との因果や、つながりについての文章が強引にけされてしまった。本物ので、それが実際に起っており、わたしの存在そのものが、「そう」である証拠にほかならない。
記され、残されてしまっては困る、と感じているひとがいるためだろう。

そうでなく扱おうと強引に敷き、流れをつくっていることの証拠ともいえるのかもしれない。

とても丁寧に本質を述べた、大切な記述だった。
別に嘘でもなんでもなく、積み重ね、起こっている事実でしかないので、何度でも書いていくことはできる。

このあとも丁寧に書き改めていくとしましょうか。

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