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連作小説 「栞」 ‐ 1冊目・行方 -


 推しが燃えた。という書き出しから始まる本が流行ったのは少し前のこと。でも今まさに澪(みお)のスマートフォンの中で実際にそれが起こっている。

「死んだ・・・・・」
「よっち、来週初舞台なのにマジタイミング地獄すぎ」
「てか記者が悪くない!?夜道に待ち伏せ盗撮とかストーカーじゃん!!!」
「アンド公式動くのかな」
「お~~い!澪~~??生きてる~~!?!?涙」

ブーッブーッブーッブーッブーッ

【ガチオタちゃん】と名付けられた澪を含む6人のグループラインは一向に鳴り止まない。秒速で流れるその画面をぼーっと見つめて既読をつけながらも、澪は何ひとつ打ち返すことができなかった。

 よっち、と呼ばれるその男が、全世界で全宇宙で、一番好きだ。

 6人組ボーイズアイドルグループ・&you(アンドユー)の末っ子、よっちことヨージ。北海道出身、21歳、メンバーカラーはライトグリーン、高音担当。&youはデビュー3年目にして関東ローカルながら深夜の30分冠番組を持ち、映画やドラマ・バラエティで活躍するメンバーも増えてきた、絶賛売り出し中の若手アイドルグループである。澪はその中でいわゆる自分の推しとしてデビュー当初から一貫してよっちを担当。ガチオタちゃんを構成する仲良し6人組はアンド(&youの略称)の各メンバーを推すファンが集って結成された高校の同級生 兼 オタク仲間だ。

 それは、高校からの帰り道。通学電車の乗り換えまではよかった。他の5人とゲラゲラ笑いながらいつものようにアンドの話をして、来週の記念すべきよっち初舞台に何を着ていくかを相談して。澪だけが私鉄に乗り換える為に降りるいつもの駅でバイバーイ!と別れた、ほんの数分後のこと。私鉄まで歩いて電車を待つホームで何気なくSNSを開いたら、トレンドに不穏な文字が浮かんでいた。

『よっち熱愛』

 ひゅっ、と喉の奥の方で音にならない音が鳴る。
 ドドドッ、と心臓が今目覚めたかのように存在感を増す。

 開こうか、開かまいか。数十分にも感じた熟考は、実際には0コンマ何秒のことだったと思う。脳で意識するよりも先に脊髄反射のごとく動いた右手の人差し指がタップしたその悪しき5文字の先で、最悪に最悪を重ねた記事の見出しが眼球に刺さる。

『スクープ!連日のアツアツ通い愛!ヨージの“&you”は年上癒し系ペットトリマー!?』

 澪の脊髄反射はご丁寧にその記事のURLをタップするところまで反応し、最悪に最悪を重ねた見出しを超えて最悪に最悪がべっとりと塗りたくられた本文には、よっち本人を直撃した取材と深夜のコンビニから出て夜道で仲睦まじく手を繋いで歩く“年上癒し系ペットトリマー!?”とおぼしき女との2ショット写真が載せられていた。

 吐きそう・泣きそう・死にそう・倒れそう・なぜか笑いそう。ぐしゃぐしゃの感情がそのまま胃からせり上がりさぁ何が出るかと思えば、漏れたのはほんの小さなため息のみだった。澪は自分が電池の切れたオモチャになってしまったのだと気づく。もう、キャパオーバーだ。
 しばらくすべてをシャットアウトすることに決めてアプリを閉じる。そのままの勢いでスマホの電源も切り、とにかく目の前の電車に乗って10分足らずで見慣れた駅舎に降り立った時には、なぜだかおそろしく遠いところまで旅に出たかのような錯覚に陥った。このまま自宅に帰るとワイドショー好きな母親の追及が待ち構えていることが目に見えていて、むしろあてのない旅を続けてしまおうかとさえ思う。それでもまだ17歳の自分に許されたお金と時間はほんの僅かで、そのことが今日一番哀しくて悔しくてじわじわ涙が滲むことが更に哀しくて悔しい。バカみたいな無限ループに苛立ちながら改札を出てノロノロ階段を降りると、普段は気にも止めない褪せた銀色のポストが視界に入った。

《 市立図書館 駅前返却ポスト 》

 ・・・懐かしい。小学校の低学年くらいまではよく通っていたけれど、中学に上がって以降はそもそも本を読む機会から遠ざかり、ここ数年は全く訪れていなかったっけ。赤茶色のくすんだレンガが古めかしい外観、ラミネートされたペラペラの貸し出しカード、ひんやりとクーラーの効いた夏休みの逃げ場、呼吸さえ憚られるような静けさ。図書館。そこはもしかして、澪が今最も欲するシャットアウトに一番相応しい場所ではないだろうか。しかも、無料!徒歩圏内!そう思うと居ても立ってもいられず、偶然見つけた旅の目的地を目指して吸い寄せられるかのように軽快に足は動いた。

 ポーン、と鳴る自動ドアの甲高いメロディが、あの頃のまま鼓膜をそっと揺らす。

 総合窓口でカード紛失の手続きを済ませると硬質カードに変わっていたことにだけ時代を感じたが、エプロン姿の優しそうなおばちゃま達(なぜか眼鏡率が高い)が5〜6人並ぶカウンターの様子も、なんのBGMも流れていない閑静な館内も、うっすらと香る古い本の匂いも。ここはまるでタイムトリップしたかのように、澪の記憶にうっすら残るそれと全く同じなのだった。
 1階は主に絵本・児童書・雑誌、2階に小説・エッセイなどが置かれている。数年前に通っていた頃はほぼほぼ1階で事足りたから、2階に上がったのは一緒に来た母親の所在を探す時くらいだったように思う。コツンコツンと木の階段を鳴らすローファーのヒール音ですら全員の耳に届いているのではないかと勘ぐってしまい、変な緊張感で動作がゆっくりになる。なんだか本当に遠いところまで来たようだ。
 
 やっとの思いで2階に到着したはいいものの、読書ブランクが長すぎて自分が何を読みたいのか・読めるのかがまったく思い付かない。悩みあぐねているうちにふとあの「推し」の本を書いた作者名を知りたくなり、所蔵図書検索用のパソコンがある場所を探し歩いた。部屋の隅にひっそりと佇んでいた正常に動いていることさえ奇跡かと思うほど古めかしいそのデスクトップパソコンは、一文字一文字をしかと確かめるように澪が入力したローマ字を追う。「う」から始まる彼女が書いたその本は、貸出中となっていた。残念ながら?それとも幸いなことに?思考と感情が追い付かずただ小さく漏れたため息は、まだまだ自分が電池切れなことを物語る。
 パソコンを離れ、目当ても意味もなく作者「あ」の単行本コーナーからずらっと並んだ本の壁を舐めるように歩いていると、とあるタイトルが目に留まった。

『冷静と情熱のあいだ』

 真逆の状態を表したその言葉はそっくり今の自分みたいで、ぎちぎちに詰められた本の背表紙の頭に指をひっかけて不安定なジェンガを引き抜くかのごとくそれを手に取った。
 壁際には一面のガラス窓に沿って、一方向にだけ向けられた一人掛けソファが並んでいる。昔はこんなこじゃれたスペースはなかったように思うから、澪が気づかないところもきっと幾つかマイナーチェンジしているのだろう。圧倒的に高齢の来館者が占めるその読書スペースで前後に誰も座っていない特等席を選んで腰掛けた。予想以上の座り心地にほんの少し気分が上がる。足元にスクールバックを置き軽く息を整えてから表紙を捲ると、そこから先は気が付けば音のない海の中でただひたすらにその分厚い小説の世界へと深くふかく潜り込んでいった。


 ーーー。第3章まで読み終わって次のページから一枚の白い紙が床に舞い落ちたところで集中が途切れ、一瞬ここがどこだか分からず無意味にキョロキョロと周りを見渡しながら同時に自分が図書館で本を読んでいることを思い出して喉の奥から恥ずかしさと笑いが込み上げる。そうだ、旅に来ていたんだった。いつもスマホで時間を確認するので澪は腕時計をつけておらず、本を読み始めていったい何分経っているのかすらよく分からなかったけれど、なんとなくその浮遊感が心地良かった。足元の『白』に目が留まる。スクールバックのそばに落ちたそれを拾うと、コンビニのレシートのようだ。

・歯ブラシ 1
・メンズ用下着 Mサイズ 1
・バニラアイス 3

 どことなく違和感を覚えるラインナップを眺めていると、久々に読書をした名残からかこのまま活字の先を脳内で映像に起こしてみたくなった。「想像」で遊ぶことは一人っ子育ちである澪の十八番だ。まずは購入者の状況を思い浮かべる。ふむ。歯磨き粉の要らない単体の歯ブラシと下着の組み合わせは、おそらく他人の家に泊まる際に使用するものだ。泊まり慣れていない場所、もしくは急遽泊まることになった場所。ふむふむ。奇妙なのは“バニラアイス 3”である。はて、3つ。家主と購入者の他にもう一人泊まっていたのだろうか。買い出しついでに用意したお土産だろうか。・・・待てよ?メンズ用下着の先入観にやられてしまったけれど、そもそもこれを買ったのが男性だと限らないのでは?

 想像という正解のない娯楽の愉しさにニヤリと頬が緩んで、そしてすぐにハッとした。この1枚のレシートと同じように、見える世界で与えられた少しの情報を元に見えない裏側に想いを馳せ続けて生きてきたよっちとの思い出が、走馬灯のように甦ったからだ。

 生歌がうまくなった!・・・ボイトレの成果かな?
 雑誌の表情がやわらかい!・・・眠そうだから早朝の撮影だったのかな?
 新しい指輪をしてる!・・・ラジオ1周年のご褒美に買ったのかな?
 突然バッサリ髪切った!・・・お芝居系の新仕事かな?

 3年間アンドとよっちの成長と進化を日々見守ることが、澪の生き甲斐だった。全世界で全宇宙で、一番好きだった。それなのに。それなのに、甘く穢れのない想像の世界から恐ろしいリアルを引き連れて出てきてしまうなんて。ずるい、ずるいずるい。あんまりだ。そんなの反則だ。もちろん、アイドルだって一人の人間だなんてことはよおく分かっている。分かり切っている。でも、その一線を守ることこそが、推される側と推す側のあいだに無言で存在するルールなのだ。それが愛情であり誠意なのだと信じていたのに、彼もそう信じてくれていると思ってたのに。あのパパラッチでよっちが左手にぶら下げていたコンビニの袋の中には、何が入っていたのだろう。歯ブラシかな。パンツかな。あ、でも『年上癒し系ペットトリマー』のところに『連日のアツアツ通い愛』だから、歯ブラシもパンツもたくさん置いてあるのか……………

 虚しい想像の果てにどこにもぶつけられない憤りを込めてぐしゃぁっと丸めたレシートは、手の中で固くちいさな塊になった。四方八方の角がチクチクと皮膚に当たって痛くて、でもなぜかその痛みを確かめていたくて、澪は何度もぎゅっぎゅっとこぶしを握った。
 しばらくその動きを繰り返していると館内にチャイム音が鳴り響き、それは18時の閉館を告げる10分前の合図だったことを思い出す。そして同時に、旅が終わる合図でもあった。放心状態のまま周りのおじいさん達に倣ってゆっくりと立ち上がり、深く息を吐いた。ほんの少しだけ電池が溜まったみたいだ。せっかくカードも作ったから、このままこの本を借りて帰ろうと思う。1冊だけというのはちょっと恥ずかしいけれど、この旅のお土産に。


 図書館から帰宅して母親のマシンガントークを振り切り決死の思いでスマホの電源をつけた。ガチオタちゃんのグループラインは40件近く未読が溜まっており、最後には「きっと返事もできないほど澪は傷ついているから今はそっとしておこう」という話でやり取りが止まっている。まだ返事をする気にもSNSを開く気にもなれずなんとなくネットで作品名を検索していると、どうやらこの本には別の作者が書いたバージョンがあるらしい。頭の中で再び、あの図書館の扉が開く甲高い音が聴こえる。
 どうやら、旅はまだ終わっていないようだ。それが歓びなのか悲しみなのか。微かに手に残る痛みの残像に、澪はようやく声をあげて泣いた。


・・・


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年4月号に寄稿されています。今月は連載4作品と、ゲスト作家による短編1作品の小説5作品を中心に、文活の参加作家が毎週さまざまなコンテンツを投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品へのリンクは、以下のページからごらんください。

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