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掌編小説 | 小日向 都のやわらかな独歩


いったいこのまま いつまで 1人でいるつもりだろう

 イヤフォンを通して脳内に流れ込むあいみょんからの問いかけに「ふむ、」と頷くと、ちょうど信号が青に変わった。散歩をしたい道がない、と思いながら小日向 都(こひなた みやこ)は前を向いて黙々と歩いている。海、川、山、河原、草原。何ひとつないこの街は、散歩をしたい道がない。ビルに囲まれている大都会でも煙の立ち上る工場地帯でもなくーーいっそのことその方がまだ散歩のしがいがあると思えるのだがーー、似たような家々がただぎゅうぎゅうに並んだだけの見栄えのしない住宅地というのは、ずんずん歩くという行為において哀しくなるほどに相応しくなかった。

 では散歩などしなければいい、と人は言う。けれど何も考えずに歩きたいとひとたび思うと居ても立ってもいられないのが小日向 都の性質で、気がつけば次の瞬間にはもういつものスニーカーに右足を突っ込んでいる。片手で手鞠のようにぽんぽんと投げられるほど軽いそれを履くと、ゆるく斜めに傾いたソールの手助けも相まって不思議なほど自動的に足が動き始めた。

 右足が前に出たかと思えば、次の瞬間には左足が。左足が地面に着いたかと思えば、次の瞬間には右足が。たゆまぬ単純作業が身体を前進させるというシンプルでこれ以上ない幸福感。歩くことはクロールのようだ、と思う。右手と左手が交互に水の抵抗を掻き分けながら、ただただ身体を直進させるその無意味かつ有意義な行為。但し、小日向 都は泳ぐことが得意ではない。その証拠に幼稚園の頃ほんのひと月だけ通っていたスイミングスクールでもらった「ひょうしょうじょう」は、下から2番目の15級が最初で最後だった。それでも自分が塩素で中耳炎になりやすい体質だと知れたことは、ラミネートされた両手サイズの表彰状と並んで人生の価値ある財産のひとつだと誇らしく思っている。

 痺れる冬の夜風がびゅおっと顔中を撫でた。耳元から絶え間なく言語が聴こえてくるというのは、時に素晴らしくそして時に倦む。ちょうど後者に差し掛かりそうなタイミングでトントンっと指先を動かしてイヤフォンへ一時停止の合図を送るのも、“プロ散歩師” を自称する小日向 都にとっては容易いことだった。だからといって、自然の音で鼓膜を心地良く揺らせるほどの風情を持ち合わせてはいないのがこの街の特徴であるから(何度も言うが、海、川、山、河原、草原・・・、それらがこの街には何ひとつない。何ひとつ!)、その代わりに幼い頃から慣れ親しんだ幾つかの音階を口遊むことにする。マスク生活が長引く中で得たふたつのメリットは、①眉だけ適当に描けば外に出られること ②散歩しながら独りで喋ったり歌ったりしても変な目で見られないこと ※小音量に限る だ。

レドシシシ ラシドドド レドシシシ ラシドドド

 変わらぬテンポで足を交互に進めながら、すこしの静寂を縫って脳に浮かんだメロディは『山の音楽家』だった。各章の決まり文句である「上手に〇〇(楽器名)弾いてみましょう」という声掛けの後に奏でられる部分の、その音階。ハーモニカなのかリコーダーなのか定かではないが、小学生の頃に必死に練習したのであろう音符の並びを20年以上経っても憶えている自分に、小日向 都は大層感謝している。この楽曲は各章の最後に「いかがです」という一言で締め括られるのも好ましかった。いかがでしょう、でもいかがでしたか、でもなく「いかがです」。収まりのよく押し付けがましくもない五文字の軽やかさたるや。嗚呼、誰に対してもそんなスタンスで生きていたいと心から思うばかりである。

「鼻歌を音符で歌う子、はじめて見たよ。」

 あれは、いつの、誰だっただろうか。恋人と呼ばれる部類の男がそう告げた時の顔は愛おしそうだったのかうざったそうだったのかすらも記憶からは綺麗に消えてしまったが、その一言だけは散歩道の途中でぽつらぽつら現れるクリーニング屋くらいの頻度で時折思い出した。けれど、自宅に最新型のドラム式洗濯機があるからその場所はもう小日向 都の人生には不要なのだった。言語ではうるさく無音だと侘しい瞬間にこうして鼻歌を音符で歌えること、自分を守り楽しませる術を既に持ち合わせていることは、とても頼もしくほんの少しだけ、淋しい。

 100メートルほど先に大きな十字路が待ち構えていた。真っ直ぐの道は大きな公園に、右の角は自宅マンションに、左の角は遅くまで開いている素敵なパン屋へと通じている分かれ道だ。十字路はいつも悩ましい。例えば、と小日向 都は想像する。右の角を曲がったところに見える公園でひと息つけて、そこを抜ければパン屋で明日の朝食を調達できて、そのまま進むと最終目的地である自宅マンションへ辿り着く。なんてうっとりする合理的で完璧なルートだろうか。だけど、現実はうまくいかない。何かを選ぶことは何かを捨てること、そう教えてくれたのは高校の恩師だった。

 『山の音楽家』から『かっこう』に鼻歌が切り替わったところで今日は公園とパン屋を捨てることに決め、約束の十字路で家路へとつま先を向けた。後ろ髪を左右からぐいんと引っ張られる思いだったけれど、一度決めたことは曲げませんよ、と誰に告げるつもりでもない宣言に鼻息を荒くしてずんずん歩いた。後悔が追い付かないようにずんずん歩きながら、今まで同じように繰り返してきた幾つもの人生の取捨選択を思い返す。

“いったいこのまま いつまで 1人でいるつもりだろう”

 小日向 都にとって、それは明確な答えを出しあぐねている問いかけだった。1人が嫌いな訳ではない。むしろ、清々しく心地よく、自分にはこの環境が向いていると十二分に分かっている。では、何故。では何故、常に僅かな後ろめたさが付き纏うのだろう。社会から不適合の烙印を押されたような、そう、15級より上には進めなかったあの時のような。よっぽど悪化しない限り、人は中耳炎で死ぬことはない。だけど、まったく痛みが伴わないかと問われればそれはノーだ。むしろ目には見えない闇の部分が四六時中ジンジンするという不快さは、じわりじわりと心を蝕む。誰かといる時の自分は中耳炎になってしまうーーそう自覚できた時、小日向 都は涙し、安堵した。これから自分が選ぶものへの自由と恐怖に、捨てるものへの解放と絶望に。

 2年契約を既に三度も更新している見慣れた自宅マンションのエントランスが歩道橋の向こうに見えた時、とてもお腹が空いていることに気がついた。夜間から始める冬の散歩は特に、最初から暗いものが暗いまま終わるのでどれくらい歩いていたのか時間の感覚を失ってしまいがちだ。明日の休日に買い出しをすべく冷蔵庫の残り物を全て投入した無国籍鍋を夕食に食べてから出発したので、脳裏で扉を開けるまでもなく食糧が尽きている。エントランスを通過し、小日向 都の足は夜道を煌々と青白く照らす道標のような蜃気楼のようなコンビニへと向かっていた。熱々のおでんを食べよう、と思った。大根とはんぺんとこんにゃく、辛子だけは冷蔵庫に残っている。斜めがけした散歩用のサコッシュには、こんなこともあろうかと常にエコバッグを忍ばせていた。予定不調和のサプライズは、散歩の醍醐味なのだ。

「らぁしゃぁせーい」

 平日の深夜帯はいつも、透き通った栗色の髪が綺麗なこの若い男の子がいる。おそらく大学生だろう、青年期特有の気怠さと繊細さが同居する彼の佇まいとチープなコンビニのマッチングが、とても気に入っていた。レジに直行する前にパンコーナーでバケットと食パンをそれぞれ片手に取りしばし明朝の気分を思案しながら、いっそのことモーニングに出掛けようかという3つ目の選択肢も浮上する。十字路は、いつも悩ましい。

「大根とはんぺんとこんにゃくをください。辛子は、結構です。」

 そう言ってクロワッサンを台に乗せると、栗毛の青年はマスクの下でフッと笑った。

「・・・え?」
「あ、いや、失礼しました。てっきりフランスパンか食パンが乗ると思ってたら、まさかのクロワッサンだったから。」
「あぁ、ふふ。お恥ずかしい。決められなかったのよ。だから。」

 だから?という不思議な目をしながらも、彼はそれ以上追及しなかった。そこがますますイイ、自分自身のインスピレーションを再確認してすっかり心が満ちる。ありやとござぁしたー、と間延びした声を背に今度こそ家路へ向かって青白い光から抜け出した。ひとときの夢が醒めた夜道は、つめたく、昏く、どこまでも続く終わらない迷路のようだ。しかし小日向 都は、手のひらで抱えたこの人工的な熱さえあれば必ず目的地へ辿り着ける、と力強く思った。

・・・

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』12月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「つづく」。ずっと続いてきた大切なものや、これから先に続いていく未来に目を向けられるような小説が並んでいます。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。


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