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掌編小説 | バクにあげます


 亡くなった父が教えてくれた。

「悪い夢を見た時は『この夢を、バクにあげます』って心の中で唱えるといいよ。そうすれば、バクが悪夢を食べにきてくれるから。」

 ちいさなわたしは訊ねた。

「・・・バク?」

「そう、バク。空想上の動物でね、鼻はゾウ、目はサイ、尻尾はウシ、脚はトラ、、」

 あまりのややこしさに一体誰が考えた設定なんだろう、と幼心ながら不思議に思いつつふんふんと頷いて、でもきちんと憶えておこう、とそのおまじないを何度も繰り返した。

 この先もしも悪夢を見てしまった時に、今日のわたしがいつかの哀しいわたしを救ってくれますように。

 そんなことを、願いながら。



 30分前に届いた『カタヤマで予約してるので先に入っていてください。少し遅れます。』という店の位置情報が添えられた丁重な連絡に当たり障りのない返信を打ちながら、予約先の小料理屋へと向かう。10月一週目、金曜日。月初は業務が重なるので体力的にも精神的にも迷ったが、“店内合流” はまずまずのアタリだ。人の行き交う駅前で待ち合わせ、事前に提示された服装から該当者らしき人物を探して声を掛ける。あの時間ほど恥ずかしいものはない。

 風が、随分と秋だった。何か温かいものが食べたくなったので、今夜はこのままフィーリングが良ければ肌を合わせてもいいなと思っている。


 カタヤマケイタ(29歳、大手法人営業、177cm、兄のいる次男、B型、趣味はゴルフとキャンプ、好きな女性のタイプは美味しそうに食事する人)はプロフィール写真の通り、この時期でもまだ灼けた肌が健康的なやけに歯の白い男だった。どう考えてもコイツは確実にモテまくって遊び散らかしているという雰囲気に早くも一線が見えて、失望以上に安堵を覚える。

「ちょっとさ、失礼なこと聞いてい?」

 互いに気持ち良く日本酒が進んだ頃にぐっと距離を縮めてくるあたりが、やはり手慣れていて巧い。どうぞ、の意を込めて掌を差し出してから再びお猪口を傾けた。

「タナカさんは教えてくれたその名前が、ほんとに本名なんだよね?」
「そうですよ。覚えやすいでしょ。」

 ふ、と片方の口角だけをあげる仕草が憎らしいほど色っぽいことを、恐らく本人も分かっているのだろう。彼は上品な薄紫色の箸袋を縦に真ん中で折って「タナカ、ナカバ。」とわたしの可笑しなフルネームをゆっくり呼びながらそれをテーブルの上に立てた。

「田中 央。左右完全対称、エロいな。」

 なにそれ意味分かんない、と笑い返した後で耳元に寄せられた “めちゃくちゃに崩してみたくなるって意味だよ” という囁きも含め、カタヤマケイタは予定調和の塊だった。32〜3歳くらいまではこうして適当につまみ食いしながら、いい頃合いで紹介された取引先の娘あたりと結婚する将来設計が既に目に見えている。

 一晩だけにしてはやや惜しい気もするが、一晩以上過ごした先に得られるものこそ何ひとつ無い。そう改めて自らに誓いながら喉をすべり落ちるぬる燗は、やさしくてあまくて、少しだけキリリと痛かった。

 明日の朝、見慣れない天井に向かってシーツの上でわたしはしずかに呟くのだ。


『この夢を、バクにあげます』



 10月三週目の水曜日、天気予報では折り畳み傘があると便利でしょうなんて甘いことを言っていたのに、仕事が終わる頃にはすっかり本降りの雨で気持ちが萎える。疲れたし、眠い。ドタキャンしようか会社のトイレで迷っているうちに通知音が止まらず液晶画面を渋々覗く。『もうすぐ到着します!』『地下鉄の出入り口らへんにいます!』『オレンジ色の傘持ってます!』『ゆっくり来てください!』続々と増える元気な吹き出しに一周回って吹き出してしまい、まぁ良いかと重い腰を上げたのは約束から5分後のことだった。


 愛おしいという種はやがて恋に育つのに、可愛いの種が成長しても恋にならないのは何故だろう。序盤から赤い顔をしてモリモリと串揚げを平らげるイシダシュウヤ(25歳、スポーツインストラクター、165cm、姉二人の長男、O型、趣味はランニング、好きな女性のタイプは明るくハキハキした人)を眺めながら、わたしはそんなことばかりを考えていた。昔からそうだ。恋の後に芽生える可愛さはあれど、可愛さから生まれる恋愛を一度もしたことがない。

「イシダくん、お姉さん達と仲良いでしょ?」

 目をまぁるくした彼がゴクンっとビールを鳴らして言う。

「え!何で分かったんすか!?ウチの姉弟、めちゃくちゃ仲良いんですよ。よくパシられるけど姉ちゃん達には逆らえないっていうか。」

 愛された育ちが顔に出てるよ、と返事をしつつ、末っ子長男ボーイは結婚相手に苦労するかもね、という余計な一言をハイボールで流し込んだ。素直で可愛い男の子には厄介な母親か姉が付き物というのが、心苦しい世の常である。

 俺から誘ったのに!という健気な男気に大きいお金しかないと嘘をついて会計を済ませると、不服そうにお礼を言う顔がどこまでも可愛らしかった。
 別れ際、ちょっとここで待っててくださいと言われ、コンビニ前で止まない水音にゆるやかな酔いを預けて目を瞑る。大粒の雨なのに、澄んでいて綺麗な音だ。

「全然お礼にならないっすけど。」

 ハイ、と手渡されたのはビニール傘だった。年甲斐も無くときめきを感じたけれど、これが最初で最後。もう会わない。玄関に溜まった幾つかのビニール傘に、この一本も紛れてゆく。

 良い子だったな、幸せになってね。勝手な願いを込めてわたしはまたそうっと呟いた。


『この夢を、バクにあげます』



 ーーなかばちゃん、カフェオレ。
 
 確かめるような眼差しのまま何事もなかったと言わんばかりにカップを差し出して柔らかく微笑む、きちんとした大人のひと。

 受け取る前に妙な間が空いてしまったのは、こちらの準備不足が原因だ。今日で7度目の約束、初めての休日昼デート、そろそろ下の名前で呼ばれる予測をしておくべきだったのに。

「・・・ごめんなさい、うとうとしちゃってた。」
「お昼寝日和の良い気候だよね。」

 10月の終わり、秋晴れに相応しい日曜日の湾岸公園は家族連れとカップルで賑わっている。水面に反射する太陽を見て眩しげに顔を顰めるヤマモトタカフミ(36歳、メーカー勤務、170cm、長男一人っ子、A型、趣味は読書と映画鑑賞、好きな女性のタイプは優しい人)は、淡いブルーのストライプシャツがとてもよく似合っていた。待ち合わせの瞬間からそう感じているにも関わらず中々言い出せない。それは照れからでも恥ずかしさからでもなく、自らの言葉が “明確な好意” として受け取られることを防ぐ為の利己的な迷いからだった。

「カヌレ、半分こしない?」

 予想外の一言に隣を見れば、両手に均等に力を入れるヤマモトの横顔があまりにも真剣で、思わず笑いが込み上げる。わたしの小さなクスクスに反応しながらも手元からは目を離さず「コーヒースタンドで限定30個って並んでてさ…こういうのつい買っちゃうんだよ…」と、集中したまま綺麗な台形をふたつ作り上げた。


 3ヶ月前に知人から紹介されたヤマモトと食事や映画を愉しみながら、その隙間を縫うようにマッチングアプリで知り合った男達に会う行為は、別の出逢いを求めることが目的ではない。他人の嫌な所ばかりが目につく捻くれた性分のわたしからすれば、初めて会った時点で悪夢だと感じなかったこと自体がそもそもの奇跡で、ヤマモトは確かに『バクにはあげたくない』人だった。
 けれど、そこで同時に新たな不安が過った。悪夢でなかったから、好きなのか?好きとは、悪夢ではないことなのか?この難題にわたしはほとほと困り果て、ヤマモトへの好意を確認する為だけの馬鹿げた逢瀬を思い付いたのだ。しかしながら、新しく出逢う毎に自己嫌悪は増し、男達が善人である程に罪悪感も増し、その都度バクに捧げた悪夢はさぞ不味いだろうと感じるようなドロっとしたやるせなさだけが募っているのが現状なのだ。

 好き、と、好きじゃない。

 結局のところ、3ヶ月が経った今もほぼ完璧に割られたカヌレのような誤差で、わたしの天秤はゆらゆらと揺れながら均衡を保っていた。


「ヤマモトさんは、生きててあぁ悪夢みたいだって思った時、どう対処しますか?」

 突然の問いかけにさほど驚くでもなく、ヤマモトはうーんと唸ってからカヌレを飲み込んだ。この “動じなさ” は好きの秤に乗せられた分銅のひとつで、とりわけ大きなウエイトを占めている。

「前の人との最後で人生の悪夢を全部詰め込んだみたいな時間を過ごしたから、もう割と何でもスルーできるかも知れないなぁ。」

 のんびりと、淡々と。見飽きた卒業アルバムのページを捲るようにヤマモトは言った。彼の “離婚歴” は好きじゃないの秤に乗った分銅であることは否めないが、さほど重みを感じないこともまた事実だ。

「人生の悪夢、全部詰め込み、」
「地獄みたいなフレーズだよね。」

 詰め込まれた悪夢の詳細を、わたしはまだ知らない。田中さんさえ嫌じゃなければ僕からはいつでも話せます、と初対面時から言われていたが躊躇ってしまったのだ。カタヤマと寝たシーツを見てもイシダがくれたビニール傘を見ても、そのことを憶い出した。
 せっかくいい夢を見ているのに、パンドラの箱から悪夢が出てきたらどうしよう。そう思うと、怖くてどうしても訊くことが出来なかった。


「田中さんは?どう対処するの?」

 田中さん、タナカさん、たなかさん。
 3ヶ月間何度もそう呼ばれてきたはずなのに、つきんと胸の奥が痛む。
 
「バクに、あげます。」
「・・・バク? あぁ、動物じゃない方か。」
「はい、空想上の。亡くなった父が教えてくれたんです。悪い夢を見た時はそう唱えればバクが悪夢を食べにきてくれるから、って。」

 はは、とヤマモトは笑った。

「そうなんだ、それは早く知りたかったな。」
 
 ーーお腹いっぱい食べさせてあげたのに、

 掠れた声で呟く彼の瞳が滲んで見えた途端、説明しようのない愛おしさがぶわっと込み上げて何故だかわたしが泣いてしまいそうだった。救いたい、と思った。その時の彼の悪夢には間に合わなかったけれど、これから出来ることもきっとあるはずだから。


「・・・そのシャツ似合ってますね、貴文さん。」

 目を見張りながらも何事もなかったと言わんばかりにありがとうと柔らかく微笑む彼を、やっぱりバクにはあげられない。パンドラに残る希望を信じてみたい。

 潮の香りが、頬を撫でる。


「少し歩こうか、央ちゃん。」

 2度目はしっかり予測していたはずなのに、想像以上の幸福で天秤がそっと傾く音がした。


・・・


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』10月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「たべる」。おいしい食べものでいっぱいの、読むとお腹が空いてくるような小説が並んでいます。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。


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