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「かわいそう」の上から目線を問う

前号に続き、熊出没に関する問題からの気付き、雑感。

熊の駆除に対し、役所等へ一部理不尽なクレーム電話があるという。
「熊がかわいそうだ」という。

私は野生の熊に出遭ったことがない。
だから、その真の恐ろしさについては知らない。
知らないが、海におけるサメやシャチなどと同様、確実に出遭ってはいけない危険な生き物であることはわかる。
少なくとも、様々なアニメやグッズのキャラで見るような「だらけて間抜けで可愛い生き物」ではないことだけは間違いない。
何なら、普通の中型犬でも危険を感じることがある日常経験から、子熊ですらかなり危険な気がする。

例えば、アフリカで人が飢えたライオンに遭遇して襲われそうになったから、止むを得ず銃殺したとする。
「ライオンがかわいそう」「銃を使うな」というだろうか。
多分、言わない。
ライオン対人間で、もしも銃なしの状況では、どう考えても人間に勝ち目がない。
自分のように銃をもったことすらない人間では、銃があって死ぬ気で闘っても勝てる気がしない。
むしろ、その状況でかわいそうなのは人間の方である。
多分、野生の熊はそのレベルの猛獣である。

また、話してわかる、しつけてわかる相手でもない。
熊には人間の言葉も文化も論理もわからない。
腹が減っていたり気が立っていれば容赦なく襲ってくる。
背後を見せて逃げれば到底人間では敵わない猛スピードで追いかけてくる。
かわいそうとかどうこう言っているレベルの話ではない。

「かわいそう」というのは、基本的に上から目線である。
圧倒的強者が弱者に対して抱く感情である。
突然人里に現れる熊とうっかり遭遇してしまった一般人。
人間が熊を「かわいそう」といえる状態ではない。
この状況で殺されそうでかわいそうなのは、人間の方である。

現場、現実を知らない外からの見方だと、何かやられた方に対しすぐに「かわいそう」となる。
実際は、やられた方と見られる側が何かをした、あるいはしようとしたということは十分に有り得る。
その現場にいる当事者同士にしかわからないのである。
要は、現場を知らない場合の口出しは、ただの個人の感想でしかないということである。

(そして今回の熊の件に関しても、私は部外者であり、感想でしかないことは言うまでもない。)

ここの部分の教訓を、一般の事例や教育に当てはめて考えられる。

例えば、今ではあまりに一般的になりすぎてあまりないと思うが、かつては
「あの子、親が離婚しているなんてかわいそう」
というのが、割と一般的な見方だった。
シングルの家庭の困難さは確かにあるかもしれないと思うが、それが「かわいそう」に直結するのは、お門違いである。
上から目線すぎる。
その状況で幸せに暮らしている事例はごまんとある。
逆に両親揃っていても(あるいは、いるからこそ)地獄という家庭はいくらでもある。

「一人っ子だからかわいそう」とかもそうだが、はっきり言って余計なお世話である。
「かわいそう」は本人が同情を求めている時以外、侮蔑のように受けとれる可能性のある要注意な言葉である。
他人の事情に対し、自分の価値観で判断して下手な口出しをしないことである。

子どもはよく同級生の子どもに対しても平気で「かわいそう」という。
これも状況によりけりだが、やたらに使うのは考えものである。
「かわいそう」といえば、その言葉によって相手は定義づけられ、本当に「かわいそうな子」になってしまう。

同級生に対し「かわいそう」と言う時に、僅かでも優越感を抱き見下すようであれば、それは教育的に見て害悪である。
口を慎むことを教えるべきところである。
「かわいそう」より「大丈夫!」と励ます方がいいことが多々ある。

学校に関するあらゆるニュースの「子どもがかわいそう」批判にもこれはいえる。
確かに明らかに同情すべき状況の場合が存在する一方で、想像をはるかに越える状況というのも結構ある。
誰が本当に「かわいそう」なのかは、実際その現場にいる人間でないと、わからないのである。
少なくとも、あらゆる場合において100対0という状況はほとんどない。

「教員がかわいそう」にもいえる。
実際に来て見てもらえばわかるが、どこもかしこもそんな状況なわけではない。
大変さはそれぞれだろうが、結構楽しくやっている人の方がかなり多い。

よく「先生って大変なんでしょ?」と尋ねられる。
本音としては、大変なのはどの仕事でも、どの生き方をしていても、きっと同じである。
仕事をしているより専業主婦(または専業主夫)の方が楽かといったら、そんな一般化ができるはずがない。
楽な現場も辛い現場もあるし、楽な家庭も辛い家庭もある。

そして、状況はいつでも刻々と変わる。
「かわいそう」なのがどれかなんて、さっぱりわからないというのが現実である。

一括りにして見ないことである。
そして、原則として、他人の台所には首を突っ込まないことである。
見知らぬ他人に突然「キッチンの並びのここが非能率」とか「狭くてかわいそうね」とか批判されて嬉しい人はいない。
まして「もっと栄養バランスを考えて」「あなたの子がかわいそう」とか、余計なお世話でしかない。

これは、宗教や生き方や価値観、あらゆることにもいえる。

相手の事情を慮る。
生の体験や一次情報をもっていない場合、当事者でない場合は、口出しや判断を控える。
特に今の時代において、大切なことである。

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