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言葉にすることをあきらめない

心のどこかで何か違うと感じながらとりあえず身近にある言葉を発してみたり、使いこなせない流行りの言葉に気持ちを託してみたり、それでもうまく言葉にできずに黙り込んでしまったり、そういうことはありませんか?

ものすごいスピードで過ぎていく毎日のなかで、新しい言葉がどんどん生まれています。その意味をゆっくりと消化する暇もないまま、反対に長く使ってきたはずの言葉の意味でさえ変わっていることに気づいて戸惑うときもあります。果たして自分はほんとうに素直な感情を、気持ちを、想いをそれに相応しい言葉で表せられているのだろうかと自問する日々です。

もし誰かが使う言葉を都合よく借りたとしても自分のことをきっちりと表してくれるとは限りません。ほんとうはもっとぴったりな言葉があるかもしれないのです。感覚に頼った短い言葉や雰囲気で外国語を使って分かり合った気になったものの、心の奥では伝えるのをおざなりにしたようで後ろめたくなったりもします。反対に手当たり次第に言葉を並べたところで必ずしもよい結果を生まないことも、言葉が簡単に人を傷つけてしまうことも、もうみんな知っているはずです。

あの時、もっとたくさんの言葉を知っていたら、もっとうまく話せたら、と数えきれないほど悔やんできました。その違和感を大切にし、言葉を探そうとする行為に終わりはないと思います。なぜなら時代は変わるし、同じように自分も歳を重ねながら変わっていくからです。

では、自分にとって相応しい言葉を見つけるにはどうすればよいのでしょうか? 例えば、たくさんの本や詩を読むこと、あらゆる映画や音楽に触れること、見知らぬ景色に出会うこと、誰かの話に耳を傾けること、共に話を交わすこと、手紙や日記を書くこと、そして何より自分を深く知ろうとすること。人はそうやって少しずつ知らない言葉を見つけていくのかもしれません。だから、これにはどうしても時間がかかってしまうのだと思います。それでも、自分に対して違和感のない言葉を与え、誰かにできるだけ混ざり気なく伝えようとするのは、切実で掛け替えのない行為ではないでしょうか。

疫病が世界を覆った頃、私たちは誰かと離れ離れでいなければいけない時を過ごしました。同じ場所で顔を見ながら空気の振動を通して言葉の微かなニュアンスを伝えることが難しくなりました。喜んだり、もしかしたら悲しんだり、目の前にいれば伝わっていたかもしれない小さな想いが置き去りにされたままになることもあります。そして、そうならずに済んだかもしれない誤解や行き違いが今でもあちこちで起きています。

悲しいですが、人と人が100パーセント分かり合うことはできません。言葉にすることを野暮だという人もいます。分からないことをそのままにしておきたい、言葉にしたくないときだってあります。ときには言葉にしなくても通じ合えると思うこともあります。反対に望んでいても言葉を持てないままいつの間にか伝えたいことを失ってしまうときもあります。そもそもすべてを言葉にするのは不可能なのかもしれません。だからこそ人は、写真や音楽のような、そこに言葉を託せる術を見つけたのだと思います。

だとしても、予め放棄することなく言葉を尽くそうとするなら、その誠実さを否定することは誰にもできないはずです。言葉を与えることで初めて見える世界や気づく感情もあります。大切なのは"語彙力"を高めたり上手く"言語化"できることよりも「自分に相応しいと思える言葉」を見つけられるかどうかではないでしょうか。

これからは言葉がますます大切になっていくのだと思います。それがいつかきっと自分や誰かを救う力を持つでしょう。だから少なくとも、言葉にすることをあきらめない、そうしたいのです。


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