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み言葉の考察⑧「信仰販売」の間違いを考察する

統一教会員の間違い④ で「万物復帰」というみ言葉は存在しない、というお話をさせて頂きました。この「万物復帰」というのは、日本語での「ファンダレイジング」を訳すのに使用したと思われますが、完全な造語です。


牧会者の道
第五章 牧会者と食口指導
第四節 蕩減復帰と公式路程
より抜粋
経済活動をするのは万物を近くで愛することであり、伝道するのは人を愛するためのものだ」と言うとき、どれほど素晴らしいでしょうか。ファンダレイジングは自分の習慣をつくるためのものだというのです。自分が愛をもってそうなれば、あの世へ行く時、その習慣性をもってその世界へ入ります。梯子がそのまま架けられるようになるのです。同じことです。それはすべて登るためのものです。

ファンダレイジングとは何ですか? 物を愛したという公証です。

伝道とは何ですか? 人を愛したという公証です。そうしてこそ、妻が必要であり、夫が必要なのです。万物を愛することができず、人を愛することができない新郎、新婦を誰が必要としますか? 誰が願うかというのです。誰が願いますか? そういう男性を新郎として侍ろうと、どんな新婦が来ようとしますか? 来ません。そういう女性には新郎も来ません。

 では、

愛とは何ですか?

物質をもって節約し、惜しんで使うことのできる生活をしなければならないというのです。

物質を愛し、その次に人を愛さなければならないのです。人間同士揉まれる社会生活において、どうかすると争いもし、不平も言うものです。不利になると、ああだこうだといろいろ事件が多いのです。そういう生活の中でじっと我慢しつつ、「うん! 愛するから耐えよう」という訓練をしなければならないのです。


このみ言葉を読むとき、日本の教会員が使用する「万物復帰」つまり「経済活動」によって伝道する、という意味合いは一切含まれません。あくまでも蕩減を復帰する上での「万物を愛する行為だ」と話されているだけです。ましてや「教会の万物を買った人は、無条件に救われる」とか「教会の万物を買った人は、天に貢献した人だ」などというみ言葉はどこにもありません。「万物復帰とは万物を復帰する行為だ」と考える教会員もいるようですが、そもそも万物は堕落していません。堕落したのは人間だけです。

さて、では「信仰販売」とはどのような行為を意味する言葉なのでしょうか。文字通り教会員全てが「経済活動そのものが信仰だ」と捉えてきたのではないでしょうか。ですから、経済活動をする教会員に「給料を払わなくても良い」という考えが出来上がってしまったのだろう、と考えます。
しかし、です。上記の文鮮明先生のファンダレイジングのみ言葉を読み返すとき、「経済活動」そのものが「信仰だ」と話されている訳ではありません。あくまでも信仰者の訓練、蕩減復帰として「経済活動をしなさい」と言われているにすぎません。そもそも、

信仰として教会もしくは教会職員(献身者を含む)が経済活動をする事自体が違法です。


そのような事を文鮮明先生が指導するはずがありません。ですから当時の献身制度自体が誤りであった、ということにほかなりません。また、当時よく言われた経済活動をすれば信仰基準が高まる?、そんなはずもありません。そもそも「基準」とはいったいなんなのでしょうか?それはあくまでも「気分」でしかない、と私は思っています。原理講論に書かれている、人間の完成に至る内容を再度読み返してみてください。私達は神との関係、ルーシェルとの関係、アダムとエバとの関係、カインとアベルの「関係」で失敗し堕落したのです。ですから私達の完成は「関係性を取り戻す」こと、つまりは

「人間関係」で勝利する

こと以外にはあり得ません。ですから

経済活動によって人に恨まれたら元も子もない

という話です。
四位基台においても「神との関係」「夫婦関係」「親子関係」「兄弟関係」の関係性の勝利しかありません。つまりは人間関係です。万物がどうだとか、という話は一切ありません。

経済活動は「活動」であって、それ自体が信仰ではない、ということを、よくよく自覚して、教会員は過去の活動を振り返り、反省して欲しいと思うこの頃です。


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