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統一教会員の間違い⑧「『神様』の為には騙したり嘘をついても良い」訳がない

こんな当たり前のことを、書かなければいけないことが非常に残念だと、思っています。
最近でも、ある教会員から「清平から真のお父様、孝進様の霊界からのメッセージが届いた」とLINEが来たのですが、全く同じ内容が、家庭連合が「分派」と呼んでいるグループから「〇〇様にメッセージが届いた」とLINEが届きました。「良かれと思って」嘘をついているのだと思います。そのほうが「信じてもらえるだろう」と思うのだと思います。しかし、です。本当にこれで良いのでしょうか。「嘘をつかれた」とわかれば、その内容すらも全部「嘘だ」になってしまうことが、なぜわからないのでしょうか。
大変申し訳ないが、こういう人は「良心基準が低い」と言わざるを得ません。かつての日本統一教会の伝道の方法が、まさにこういう発想から多々問題を起こしてきた、というのは事実です。それを「神様の為だ」といって、間違いを認めないことが、果たして神様が喜ぶ事なのでしょうか。

文鮮明先生は、自叙伝でこのように話されています。

最も大切なことは、罪を犯さず、影のない人生を生きることです。何が罪なのかという問題は、宗教的に、また哲学的に多くの論争の種になりますが、はっきりしていることは良心が躊躇することをしてはならないという事実です。良心に引っ掛かることをすれば、必ず心に影が残るのです。

ちなみに統一教会員の中には「ヤコヴはエサウから長子権を、父イサクを騙して嘘をついて奪ったのだから、良い事の為、あるいはサタン世界から人を復帰する為には嘘をついても良いのだ」と思っている人がいるようです。しかし、です。このことについて原理講論にはどのように書かれているでしょうか。

第一章 復帰基台摂理時代
第三節 アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理
(一)信仰基台
(2) 信仰基台を復帰するための条件物
③ み旨から見たイサクの位置と彼の象徴献祭
(二)実体基台
より抜粋
しかるに、長子の嗣業を復帰しなければならない使命をもって胎内から選ばれたヤコブは、次子の立場から、知恵を用いて、パンとレンズ豆のあつものを与えて、エサウから長子の嗣業を奪ったのであるが(創二五・34)、ヤコブは長子の嗣業を重んじてそれを復帰しようとしたので、神はイサクに彼を祝福させた(創二七・ 27)。これに反してエサウは、それをパンとレンズ豆のあつもので売ってしまう程度に軽んじたので、彼を祝福なさらなかったのである。

どこにも「嘘をついた」という記述はありません。
どうして「嘘をついても良い」という考えが生まれてしまったのか。再度統一教会員は自分の胸に手を当てて、自分の良心に嘘をつかないと心に誓って欲しい、と思う毎日です。

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