見出し画像

「イタリア・ルネサンス」二大巨匠の世紀の対決


▲レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像

 「ルネサンス」とは、中世のヨーロッパに広がった、文化・芸術・思想の動きです。14世紀にイタリアで始まり、16世紀まで続きました。「ルネサンス」はフランス語で、「再生」を意味する言葉です。当時のヨーロッで主流だった、キリスト教を中心とする思想から離れ、古代ギリシャや古代ローマ時代のいわゆる「古典文化」を「復興」させるという面があったことに由来します。古代の文化を手がかりに、芸術・建築・文学など各ジャンルで、人間らしさを自由に表現した新しいスタイルの作品が多く生まれました。
 この「イタリア・ルネサンス」で活躍した芸術家の中で、ここにいう二大巨匠とは、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロのことです。
 
 レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日メディチ家が支配するフィレンツェ共和国のトスカーナ地方にあるヴィンチ村に生まれました。父はフィレンツェの裕福な公証人セル(メッセル)・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母のカテリーナはおそらく農夫の娘とされています。
 レオナルドの姓であるダ・ヴィンチは、出身地のヴィンチ村を意味します。レオナルドの本名は、レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチといいます。彼は、家や寝室にこもるよりも野山や谷川を好み、時には村の馬小屋で馬の世話やスケッチなどをして幼少期を過ごしたといわれています。
 16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、レオナルドの幼少期について次のように記しています。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めました。レオナルドが描いたのは、口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロは、この絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡ったのです。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを買い、レオナルドを育てた小作人へ贈ったといいます。
 セル・ピエロは息子の作品を見て、絵の才能があると確信し、レオナルドを、フィレンツェで一番有名だった「ヴェロッキオ工房」に弟子入りさせました。この時、レオナルドは14歳。師匠・ヴェロッキオのもとで絵を学び、めきめきと上達していくと20歳で正式に一人前の画家として登録されました。
 レオナルドは、容姿端麗な美男子で、師匠・ヴェロッキオをはじめ、様々な画家のモデルになっています。レオナルドは絵画のみならず、様々な学問にも興味を示しており、それらの事柄は彼の「手稿」という形で現代まで残っています。
 

▲ミケランジェロ・ブオナローティ


 一方、ミケランジェロは1475年3月6日に、執政官の父ルドヴィーコ・ディ・レオナルド・ディ・ブオナローティ・シモーニの派遣先だったイタリア中部のフィレンツェ共和国のカプレーゼ村に次男として生まれました。母親の名前はフランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シエーナで、ミケランジェロの本名は、ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニといいます。
 一家はあまり裕福ではありませんでしたが、貴族の出身で、キウージの首席行政官を務めていました。父ルドヴィーコは、ミケランジェロ少年を人文主義者フランチェスコ・ダ・ウルビーノのもとへ送り、学問を学ばせようとしましたが、ミケランジェロは学問には興味を示さず、教会の装飾絵画を描いたり、画家たちと交際することを好みました。その後一家はフィレンツェに戻り、ミケランジェロが13歳の時、当時大工房を構えていたドメニコ・ギルランダイオの弟子になります。住み込みで働きながら、才能のある若い芸術家に開放されていたサン・マルコ修道院中庭のメディチ家の彫刻コレクションに出入りすることができるようになったことから、1年ほどで工房を去り、メディチ家コレクションの古代彫刻や、初期ルネサンスの優れた作品から多くを学び、その後の創作に生かしていきました。この間ミケランジェロは、修道院から遺体を提供してもらい、解剖学を学びながら創作活動を続けています。師匠ギルランダイオは当時、ルネサンス期最大のパトロン、メディチ家お気に入りの画家でした。そのつながりでミケランジェロは、フィレンツェの大富豪、メディチ家のロレンツォ・デ・メディチに才能を見出されます。フィレンツェにあるメディチ家の宮殿で暮らしながら、作品を制作するようになったミケランジェロ。彫刻や建築で才能を発揮するも、ロレンツォの死後は各地を転々としていました。
 

▲サン・ピエトロのピエタ

 やがて作品が後のローマ教皇となる人物の目に留まると、ミケランジェロはローマに招かれ、教皇庁から「ピエタ」の制作を依頼されます。ミケランジェロの彫刻の出世作となるこの「ピエタ」は、サン・ピエトロ大聖堂に飾られたため《サン・ピエトロのピエタ》と呼ばれます。この大理石の彫刻こそは、メディチ家の衰退で各地を放浪中のミケランジェロが、ローマで制作したデビュー作であり、この時、ミケランジェロは24歳でした。死せるイエスとそれを悼んで憐れむ生き生きとした聖母マリアの像が忽ち評判となり、鮮烈なデビュー作となりました。イエスの母にしては若すぎるマリアですが、悲しみを湛えて美しく、その衣服の下の身体は「古典的な女性美の頂点」と評されます。イエスは左足をやや持ちあげており、死体であることがわかり、解剖学の知見によって生み出された「人間」の姿として横たわっています。
 公開当時、ミラノの人々は無名の彫刻家が手がけたとは夢にも思わず、自慢げに「ミラノの彫刻家クリストフォロ・ソラーリの作品だ」といっていたのを聞いたミケランジェロは、夜中にこっそり展示場所に忍び込み、マリアが肩からさげる帯に自分の名前と出身地を刻んだという逸話が残っています。ミケランジェロが自分の作品に署名したのは、後にも先にもこのときだけといわれています。

 

▲ダビデ像


 次いで、ミケランジェロの原点となった、彫刻の代表作「ダビデ像」は、ミケランジェロが26歳の頃にフィレンツェで制作した作品です。レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と並ぶ、美術史上屈指の傑作といわれています。
 ダビデは旧約聖書に登場する英雄で、たった1人で敵国の巨人「ゴリアテ」を倒したとされる人物です。これまで巨人を組み伏せるダビデの雄姿を描いた彫刻や絵画は、多く作られていました。しかし、ミケランジェロの「ダビデ像」は、こうした伝統にとらわれず、巨人に戦いを挑む直前の姿を表現しているのが大きな特徴です。武器を持つ両腕に力をみなぎらせ、決然と相手を見据えるダビデからは、今にも攻撃を開始する気迫を感じます。
「ピエタ」と「ダビデ」の成功によって名声を博したミケランジェロには、以後、多くの注文が来るようになりました。しかし、ミケランジェロの多くの作品は、「アンフィニート」と呼ばれ、未完成のまま終わっています。というのも、教皇や諸侯の権力には逆らえず引き受けた一方で、無類の完璧主義者だったミケランジェロは、時間の観念が著しく欠如していたのです。

 それほどの天才彫刻家ミケランジェロですが、レオナルドにいわせれば、大理石の立像はその自重により足首が非常に壊れやすいものとなっており、実際ミケランジェロの《ダビデ像》ではその問題を解決するために、左足を地面から生えている樹と一体化させ、立脚にかかる負担が軽減されていると指摘します。レオナルドは、こうした点に着目し、「彫刻は(絵画に比べ)火や空気などの万物を表現することができない」と厳しく追及しているのです。
 
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミケランジェロにとって、23歳も年上の先輩芸術家です。既に名声を得ていたレオナルドは、若いミケランジェロの才能を認めながらも、様々な場面で対峙していきます。
1504年、ミケランジェロの《ダビデ》像の設置場所について、ボッティチェリやレオナルドなどの芸術家が集められ、設置場所検討委員会が開かれました。ボッティチェリらは大聖堂前やシニョリーア宮殿の中庭という意見でしたが、レオナルドは像を保護する観点からシニョリーア宮殿向かいの屋根のある回廊を推しました。
 すると委員に入っていないミケランジェロが真っ向から反論し、多くの人の目に触れる共和国政庁舎の入り口がふさわしいと言ってヴェッキオ宮殿正面入り口を主張、これを委員長が支持しました。そこにはもともとドナテッロの「ユディト」という作品がありましたが、これを移動させて置かれることになったのです。
 

▲アンギアーリの戦い Wikipediaより

1503年、ヴェッキオ宮殿の大きなホール「五百人広間」の壁画がレオナルドに依頼されました。馬が得意なレオナルドは「アンギアーリの戦い」を描こうと取り組みます。

▲カッシナの戦い Wikipediaより


▲ヴェッキオ宮殿五百人広間


 その翌年、別の壁面がミケランジェロに託されます。ミケランジェロはレオナルドと同じ騎馬戦の場面を避け、「カッシナの戦い」の場面を選びました。しかし、レオナルドの絵は彩色中、雨水が流れ込んで下絵が滲んでしまったことで画法に悩んで筆が進まないうちに、一方のミケランジェロもカルトン(画稿)を完成させたところで、教皇からローマに召喚されたため中断してしまい、残念ながら未完成のまま決着はつかずに終わってしまいました。もし完成していれば美術史に残る傑作となったはずです。
 
 このようにミケランジェロとレオナルドの仲は悪かったといわれていますが、果たしてそれにはどのような意味があったのでしょうか。23歳も年上のレオナルドは美男で物静かなタイプ、一方のミケランジェロは無骨で怒りっぽいという、外見も性格も正反対でした。また、ミケランジェロは科学的知識や文学的な教養の面で、レオナルドに劣等感を抱いていたといわれています。しかし、これほどの巨匠二人が、単なる外見や性格・教養の違いで対立するでしょうか。
 
 15世紀前半から16世紀半ばにかけて、芸術分野全体を通じて「パラゴーネ論争」(諸学芸優劣比較論争)という「絵画」、「彫刻」、「建築」の内どれが最も上かという論争はあちこちで巻き起こっていました。それは、空虚な観念論ではなく、美術家たちがしのぎを削った革新的な創作活動を通じて、美術家の社会的地位向上と美術各分野の存在根拠を問う、実存的な探究でした。
 「パラゴーネ」とは、イタリア語で「比較」や「対照」などといった意味の言葉です。とりわけ西洋美術では、主に絵画と彫刻の優劣を論じる比較論争がメインでした。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロをはじめ、ルネサンス期に「絵画、彫刻いずれが高貴な芸術なのか」を巡り、この論争は盛り上がりを見せました。いずれの芸術が高貴なのかという論争は各領域の特質に迫るものであり、彫刻芸術の造形的普遍性を捉える上で極めて重要なものでした。
 
 中世ヨーロッパの職業観には「手が汚れる仕事(画家や彫刻家)は手が汚れない仕事(政治家、司祭、法律家など)より下」という考えがありました。キリスト教の影響力の強い当時のヨーロッパの大学では「神学」が最高の学問で、これを「哲学」が支えていて、それをさらに支えているのが「自由七科」(文法学、論理学、修辞学、幾何学、算術、天文学、音楽の7つ)でした。「美術」は手が汚れますが「音楽」は手が汚れないため「音楽」の方が上に位置付けられていたのです。
 さらに、当時の教会では文字の読めない人に聖書の教えを伝えるため、イエスや聖人の彫像が用いられましたが、財力のない教会は彫刻の代わりに、それを絵画で間に合わせようとしました。つまり、彫刻は大聖堂のような建築を飾り、絵画は彫刻の代替品のような位置づけになっていたのです。
 

▲ノートルダム大聖堂の彫刻


 ミケランジェロは生涯を通して、自分が彫刻家であることに固執し、彫刻の本質に触れる言葉を多く残しています。ミケランジェロにとっては絵画よりも彫刻が絶対的な存在で、絵画は彫刻のための手段のひとつと考えていました。1547年、ミケランジェロがパラゴーネ論争を取材していたベネデット・ヴァルキに返信した手紙の中に「絵画はレリーフ(浮彫り)のようになればなるほど良いものになり、浮彫りは絵画のようになるほど悪くなる」「彫刻は絵画を照らす灯火であって、彫刻から絵画までの距離は、太陽から月ほどの違いがある」などとし、彫刻が優位であることを主張しています。しかし、ミケランジェロは後に彫刻と絵画はともに崇高という同一の理想を追求するものと考えられる以上、もともと同等のものと判断しなければならないと、対外的とはいえ考えを改めることになります。彫刻の絶対的優位に死ぬまで固執したのではありません。
 

▲アテネの学堂


 いずれにしても、このような当時の「美術」への冷遇に対して、画家や彫刻家たちは何とかしたいと願っていました。ですからバチカン宮殿の壁画「アテネの学堂」の制作を依頼されたあの聖母子像で有名なラファエロ・サンティは、この哲学者たちの群像に、密かに尊敬する画家の顔を描いています。すなわち、画面真ん中で上を指さすのが、プラトンですが、顔はほぼレオナルド・ダ・ヴィンチをモデルにし、手前の階段下で頬杖をついて座っているのが、ヘラクレイトスですが、顔はほぼミケランジェロをモデルに描かれています。そして何とラファエロ自身も右端にこっそり描かれているのです。ラファエロは、古代の哲学者を描くべき壁画のモデルに、当時冷遇されていた画家や彫刻家を描くことで、「美術」の高尚さをアピールしたといえるでしょう。
 
 レオナルドとミケランジェロの彫刻と絵画の優位性をめぐる論争をさらに深掘りしてみると、決して個人的な感情の対立ではないことがわかります。
レオナルドは、絵画の優位性を語る『絵画論』というテキストを著していますが、ただ、彼らの論争は、絵画ないし彫刻の特性をいかに知的に論じることができるかという点にも主眼が置かれており、当時芸術の中でも、その地位が低かった美術全体の地位向上を意図したものだったと思われます。ミケランジェロはあくまで論争の好敵手として、レオナルドに意図的に選ばれたのかも知れません。
 
 レオナルドは絵画が最も優れた芸術であると主張し、『絵画論』では彫刻のみならず、詩や音楽といった諸芸術との比較も行い、絵画の優位性を体系的に示しました。ここでレオナルドが指す彫刻とは大理石の彫造であり、何かにつけ対峙していたミケランジェロを意識したものであることに違いはありません。そして、その彫刻に対して「音楽の後には非常に価値ある芸術である彫刻が来る。然しそれはそれ程までに優れたものではない」と、彫刻が絵画よりも劣っていると述べました。レオナルドが、『絵画論』で彫刻が劣っていると主張した点をまとめると、彫刻は肉体労働である、彫刻は色もなく、光と影に依存している、万物(水や雲、火等)を表すことが出来ない、彫刻の永続性は素材によるものである等が挙げられています。
レオナルドは絵画を、ミケランジェロは彫刻を、最高と主張しあう両者の対立も、単に才能のある二人が競ったというだけでなく、根底にはこのような芸術観の違いがあったのです。
 
 特に素描については、単に造形的な諸芸術の基礎であるばかりではなく、他のジャンルの芸術の基礎でもあるとしています。さらに、ミケランジェロが述べる彫刻は「彫造」を指し、「塑造」については絵画に近い仕事であると考えており、とりわけ大理石から彫ることに全神経を使っていたのです。ミケランジェロの彫刻制作は、少し変わっていました。多くの彫刻家は四方から彫っていくのですが、天才ミケランジェロは一方から彫っていきました。あたかもどう彫っていいかわかっているかのように迷いなく彫り進めます。「中に閉じ込められたものを救い出す」とよく言っていたそうです。
立体物である彫刻は絵画とは違い、確かに様々な方向から鑑賞することが可能ですから、四方から掘り進めるのが理想のようですが、レオナルドは、正面と背面の二面のみで立体の形を追求することができると主張していました。「彫刻家は、連続性をもつ数限りない輪郭線を得るために、数限りない素描を描くことなしには彫像が作れないと言います。しかし、その限りない素描は、一つが背面、もう一つが正面という二つの面に切り詰めることができるとわれわれは答えます。これら二つの半分が正しく対応しているならば、合わせて丸彫りしたような彫像ができるでしょうし、もし二つが全ての部分で適切な浮き彫りをもつならば、これ以上仕事することなしに、彫刻家が必要だと称した数限りない輪郭線において、二つは自ずとぴったりと照応することになるでしょう。」レオナルドは、無限にある立体に対して、突き詰めれば背面と正面の二面のみで構成することができると述べており、これを実証するために騎馬像の制作に取りかかりました。しかし、1499年、フランス王ルイ12世が、イタリア戦争で、ミラノに侵攻したとき、レオナルドが製造していた大騎馬像のための青銅は、急遽大砲用に転用され、出来上がっていた原寸大模型はフランス兵の試し撃ちの標的にされ破壊されてしまいました。
 
 その後、ミケランジェロは、ローマ教皇ユリウス2世に彫刻の肉体的な美を絵画に取り入れた作品が絶賛され、教皇ユリウス2世からも制作依頼をうけるようになります。しかし、教皇からの制作依頼は「絵画」ばかりで、そのため、彫刻家の自分に絵画の仕事ばかり来ることを不満に思っていたといいます。教皇に気に入られて以降、ミケランジェロは彼に振り回される生活を送るようになります。例えば、教皇ユリウス2世自身の墓碑をつくるように命じられるも、突然中止を言い渡されたり、準備のために用意した大理石代金も支払われなかったり等々。そんな教皇に対し、ミケランジェロは、ついに怒りを爆発させ、仕事を放り出してフィレンツェへ帰ってしまいました。
 

▲天地創造


 その後、ローマに戻ってきたミケランジェロを待ち受けていた仕事は、システィーナ礼拝堂の天井画「天地創造」でした。彫刻家という仕事にこだわり、画家ではないと自負していたミケランジェロは、この天井画にラファエロを推薦し、一旦は断りました。しかし、この依頼は教皇によるもので、「彫刻家であって画家ではないのに」と不満を抱えながら、教皇の権力には逆らえず、ミケランジェロが受注することとなりました。
最初はイエス・キリストと十二使徒のみを描く予定でしたが、さらに豪華にという教皇からの要望に応えて天井全体を埋め尽くす天井画となりました。しぶしぶ引き受けたものの、描き始めると次第にのめり込んでいったミケランジェロは、作業を手伝う職人たちを追い払い、たった1人で描いていきました。完璧な芸術品を作りたかったミケランジェロは、自分でも制御できない何ものかに突き動かされ、制作に没頭していったのです。高い三脚を使ってのぼり、長時間上を向いて描く過酷な作業で、4年の歳月を経て完成させましたが、上から滴る絵具が目に入り失明したともいわれています。後にこの「天地創造」を見たゲーテは「この天井を見れば、われわれ人間がどれほどのことができるかがわかる」とその偉業を称えました。

▲最後の審判

 そのシスティーナ礼拝堂の正面の壁画「最後の審判」は、ミケランジェロが58歳のときに手がけた作品です。芸術作品として高い評価を受ける一方で、宗教画としての評価が分かれる作品としても有名ですが、特に登場人物がほぼ全裸であることが、批判の対象となり、完成間近の絵を見て、とても礼拝堂には飾れないと非難した関係者もいたほどでした。このときミケランジェロは、非難した人物に似た顔を持つ地獄の番人を描き、ひそかに仕返しをしています。ミケランジェロは、当時の社会常識がまったく欠けていた訳ですが、彼にとって、肉体美は神聖なものであり、美しいものだけを追求する自然人が脈々と生きており、ルネサンス運動の真骨頂といっても過言ではありません。

▲ダビンチの素描


  レオナルド・ダ・ヴィンチは、しばしば「万能の天才」と呼ばれますが、あらゆることに「天才」であるような人間は存在しないといってもよいでしょう。ただ確かにいえることは、あらゆることに興味を持ったことは間違いありません。レオナルドは、様々な疑問やアイデアをメモに残し、それらを制作物の構想に活かそうとした結果、芸術や科学など様々な分野に及ぶ5000枚もの「手稿」を残したのです。
 どのようにして雨は降るのか、空から降る雨滴にどのような現象が生じているか観察しました。また、なぜ空は青く見えるのか、それは空気の色ではなく、微細な水分に背後から太陽光が当たるからと考えました。高い山に登り天空に近づけば大気は暗くなると考え、高い山で貝殻を見つけると、化石はいかにしてできるのか考えました。なぜ海の水は塩辛いのか、なぜ太陽は西の地平線では大きく見えるのか、どういう形のシャベルが能率よく土を掘れるのか、どうすればトンネルを両側から掘り進んで正確に貫通できるか、川の流れはなぜ蛇行するのか、波はどのようにして起こるのか、鳥はどのようにして空を飛び続けるのか、馬は四本の足をどう動かすから速く走れるのか、果てしない好奇心が汲めども尽きぬ泉のように湧いてくるのでした。
そうした飽くなき探究心が絵画の技法にも活かされていったのです。遠くにある樹や建物は、どう描けばよいのか、物の輪郭には筆で描いたような線があるわけではないが、どう描くべきか。あらゆるものをとことん見究め、正確に描く。その観察眼と描写力こそが、レオナルド・ダ・ヴィンチの真骨頂であり、解剖図であり、馬や人体の描写へと結実していったのです。

▲モナ・リザ

 神秘的な雰囲気を漂わせる「モナ・リザ」には、「スフマート」という絵画技法が使われています。「スフマート」はレオナルドが生み出した技法で、輪郭線をぼかして立体感を出す技法です。彼は輪郭について「ものが隣接したとき、あるいは、重なり合ったときに見える境界線」と語っています。物に輪郭線がないことを理解していたレオナルドは、距離によって色調が変わることに気づき、輪郭線をぼかして薄く溶いた絵具を何回もぬり重ね、微妙に色の変化をつけていくスフマート技法から「空気遠近法」を生み出します。彼が生み出した「空気遠近法」により、対象物の立体表現や空間表現が自然なものになり、まるで生きているような空気感を漂わせるのです。あのラファエロが「モナ・リザ」を見て涙したというのは有名な話です。

▲書籍表紙より

 レオナルドの解剖図は、当時の人々の眼にふれることはなかったので歴史上影響を与えることはなかったが、現代でも、その正確さは高く評価され、医学の教科書に掲載されているほどです。現代の学者でも、レオナルド以上に正確な、しかもわかりやすい人体解剖図を描くことは至難の業といえるでしょう。
おそらくレオナルドの好奇心は、人体の動きと骨格や筋肉がどのように連動するのかを知るために、解剖を必要としたと考えられます。そのため、彼は、筋肉をあまりに強調しすぎた当時の画家たち、例えばミケランジェロの筋肉隆々たる人体を批判していたのです。
レオナルドは絵を描くためなら、馬や人体を解剖し、解剖そのものの追究がとどまるところを知らず、いずれも完璧にやりとげようとしたため、次々と好奇心が乗り移って、そのすべてを完璧なものにしようとすればするほど、一つのものを納得して完成させることができませんでした。
これほどの完璧主義者だったレオナルド・ダ・ヴィンチだからこそ、ルネサンス期の「パラゴーネ論争」において、極めて重要な理論家であったことは、当然のことといわざるを得ないのです。

▲ルーブル美術館


 富国強兵のアイデアが求められた戦国時代のイタリアにあって、就活のためとはいえ、様々な王侯貴族に仕え、様々な武器や建造物を考案したレオナルド・ダ・ヴィンチが、完璧主義者ゆえに、未完成だといって依頼人に渡さず、死ぬまで手元においていた「モナ・リザ」が、イタリアではなく、フランソワ1世の治めるフランスのものとなり、今日ルーブル美術館にあるのも何と皮肉なことでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?