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インストゥルメンタル #5


 とても悲しげなインストを聴きながら書いている。すると、言葉はちゃんと丸みを帯びてくる。言葉は、ちゃんと僕を写してくれる。だから言葉を刻む事は、自己探求として最良の手法のひとつなんだ。だからなんなんだろうね。


 もう、このままでもいいじゃないかな。そんな気がしてきたのは今朝のこと。物事に興味もなければ夢もない。何も目指さず、ただ与えられたものに感謝して、ただそこに在ろうとする。それはそれで、その自分だって尊いのかもしれない。違うかもしれない。

 動的な安定。と、教えられた事がある。世界は川のように流れている。抗おうとしない限り、私たちは流されてしまう。ひたすらに泳ぎ続ける。そうして、その場に安定する。その時はそれが正しいと思っていた。でも今は、真っ向から否定してみる。
 川の流れとは、果たして流れなのだろうか。それは重力圏から解き放たれた時、同じ振る舞いをするだろうか。三次元から開放された時、同じようにセカイを降るだろうか。
 つまり、私たちは条件を変える側に立つ必要があるのではないだろうか。川の流れに流される前に、セカイを反転させて山の頂きを目指す川を作らなければならない。百万匹の鯉が一斉に川を登れば、川はその流れに従うのではないだろうか。

 もしかして、ボクの世界の前提が違うのかな。だってボクの世界に、流れなんて無いんだ。流れ流されたくても、そんなものないんだ。何も書かれていない空気を必死に読もうとしても、そこには何も書かれていないんだ。
 僕たちに出来ることは読むことでも受ける事でもなく、ただ書くことであり、ただ流れを産むことだ。それは他者のセカイに届くことはなく、ただ己のセカイに無意味な一文が刻まれるに過ぎない。けれど、それが僕達に出来る精一杯だし、それをすることはとても難しくもあるんだ。

 みんなでみんなの背景を描いていく。私たちは透明だけれど、そうして色を付ける事が出来る。準透明な私たちが重なりあって、僕はあなたの背景になれるし、あなたは僕の背景になれる。そうして重なり合った多重セカイを、僕らは生きている。

 全て現実なんだよ。あなたの妄想も、デジタル空間の出会いも、電車で隣に座った知らないあの人との出会いも。区別はいらない。ただ私とあなたが出会っただけ。それだけなんだよ。


 ここに紡いでいく言葉は、僕が消し去ろうとしている心の全てだから。言葉にすると死んでいく。僕はこうして、過去の自分が紡ぎあげたセカイを、一つずつ殺していく。さようなら友よ。地球を廻った頃、また同じ場所で僕を拾ってくれ。


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