「神は死んだ」そうだが、神を見た人物はいないから、どうやってニーチェは判定したのか、さっぱり私には理解不能である

そうかあ、ニーチェによって「神は死んだ」ことにされたのか。
さて、私の疑問は、「神の実体」を見たものはいない、だのに、なぜ「神は死んだ」と言えるのか。
私は、無神論者だから、このような形而上学にWhy?だけしか、感じない。
結局、神とは人間の妄想の産物であることは21世紀の今日では、その見方が確立している。
だから、今やある意味「多神教」である。
カルトと呼ばれるバラエティな産物が「多神教」を生んでいる。
欧米人は教会へ行かなくなったらしく、「一神教」的な考えを捨てようとしている。彼ら欧米人は「資本主義が生んだカルト商品」を信仰する「多神教」信者へ様変わりした。
しかし、基本にあるのは「資本主義は正しい」という「一神教」が、天安門事件(1989年)、湾岸戦争(1990年)、ソ連崩壊の(1991年)のこの巨大な歴史的事実が人類を資本主義信仰へ至らせた。伏線は、フリードマンのシカゴ学派、中曽根、レーガン、サッチャーである。
私たちは資本主義を「宗教」とみていない。
それはおかしい。
なぜなら、すでにウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という本を20世紀に上梓しているではないか。
マルクスは、資本主義社会を、いや、社会全体を経済が下部構造にあり、それが法や国家、政治、宗教、イデオロギーなどの上部構造を支える、と述べたが、経済活動そのものが、「宗教的」であり、それこそ上部構造なのだ。
百姓が「年貢でごわす。」というとき、それは封建制イデオロギーと封建制経済が一体化した「宗教」なのである。
つまり、時代に規定された人類の総合に我々は逃れられない。
「宗教的」であるとはそのことである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?