電車の中の恐怖

通勤や通学で利用する列車の中で恐ろしい経験をすることがあると思う。私の経験を共有しよう。


==========第一話==========

金曜日の終電間際の列車は混んでいるものだ。その日のJR大崎駅も同じだった。

でも私は間一髪、山手線内回りの列車に飛び乗ることができた。他と違ってそのドアのところだけ、二人が立てるくらいのスペースが空いていたのだ。その隙間に、ドアが閉まる寸前に滑り込むことができた。

しかし乗り込んでみると、あることに気づいた。
もう一人分空いていると思ったスペースには若い男が体育座りをしていたのだった…。

夜の列車ではよくあることだ。特に金曜日の夜には。

私は窓の外をボンヤリと眺めながら次の品川駅での乗り換えについて考えていた。
このまま山手線に乗るか、もしくは快速列車に乗り換えるか・・・。

しかし、その『音』を耳にした時、すぐさま次の駅で乗り換えなければならないことを悟った。

  「んぐっ、んぐっ」

(つづく)

(注)
この後の展開は予想がつくものと思う。
こういった話がお嫌いな方は読まないでほしい。
そんなに嫌いでなくても食事中は避けてほしい。

==========第二話==========

「んぐっ、んぐっ」

そうなのだ、男は酔って気分が悪いのだ。男の顔色は白く、床の一点を凝視している。

右手はグーの形で握りしめ、口元に押さえつけたままだった。頬っぺたがリスのように膨らんでいる…。予断を許さない状況にあるようだった。列車が揺れるたび、彼の頬が萎んだり膨らんだりしている。防波堤は決壊寸前にみえた。

周囲も気付いていて何とか彼との距離を取ろうとにじり去ろうとするが、混雑の中ではままならない。私も例外ではなく、目の前には列車のドアが立ち塞がり退路はない。この危機を前にして、20年くらい前の列車内の事件がフラッシュバックした。

-----20年前のできごと(ここから)-----
学生の時、運よく満員列車の中で座れた私は指導教官から与えられた課題に取り組んでいた。しかしその時、バケツの水をひっくり返したような嫌な音に中断を余儀なくされた。続いて喚声と怒号が響いた…。

その後、満員にも関わらず人民大移動があり、まるでモーゼの十戒のように視界が開けた。視界の先には一人の男が真っ青な顔で立ちすくみ、周りには彼の元帰属物が拡散していた。時間軸に沿って、エントロピーは増大する。人波と共に強烈な酸性の臭気が届いた…。

足元を汚されたサラリーマンが怒鳴っているが、呆然とした男の耳には届いていないようだった…。
-----20年前のできごと(ここまで)-----

そんな酸っぱい思い出に浸っている間も、目の前の男の往復運動は寄せては返してを繰り返していた。

むしろ周期が徐々に短くなっているようだ。

突然、最初の危機がやってきた。

(つづく)

==========第三話==========
突然、最初の危機がやってきた。

大崎駅を離れ、ちょうど山手線が東海道線と並走するところで列車が大きく揺れた。ポイントを乗り越える時にガタガタと揺れ、車輪が線路と擦れあうキーッ、キーッという音と共に、私はドアに押し付けられた。

私は観念した。もうダメだと思った。気象庁なら注意報を警報に切り替えているだろう。

被害を最小限に食い止めるために、私は水たまりを歩くときのように踵を少し浮かしてみた。だがそんなことをしても、彼から50cmも離れていない場所は第一種被災地域に認定されている…。水没や飛沫被害は100%免れないだろう。そうなると、この後帰宅までの約1時間、酸っぱい臭いと共に、列車に乗らなければいけないはめになる。周りの乗客に誤解されるだろうな…、無言の冷たい視線が刺さるに違いない。「いや、私じゃないんです…。私は被害者なんです。」そんな言い訳をしながら列車に乗らないといけない。

クリーニング屋に出す時も、嫌な顔されるに違いない。それからずっと店員に「ゲロリーマン」とか陰口されるなんてことは避けなければいけない。いつもは使わない、ちょっと遠いところにあるクリーニング屋に行くことにしよう。

でも、その男は何とか最初の危機を乗り越えたようだった。ゴクリと何かを飲み込む所作があった。ただし状況は改善しておらず、彼の右手はグーからパーに変わって口をしっかり塞いでいた。水道管に開いた穴からの水漏れを抑えこむように。目は焦点が定まらず白黒している。

まだ品川には到着していない。警報は警報のままだ。

(つづく)

==========第四話==========
東海道線と併走するようになったら品川駅は、もう少しだ。

「あーっ、早く品川駅に着いてくれ!」
「運転手よ、オレをこの危機から解放してくれ!」

きっとこの列車の運転手は、こんな危機的状況のことはいざ知らず、いつも通りに列車を運行しているに違いない。恐らく、これから食べる夜食のことなんか考えながら、鼻歌交じりにレバーに手をかけているんだろう。

早く品川に到着してさっさとドアを開けて欲しいのに!!

列車の運転手に期待できない私は、その若者に祈ってみた。

「NEVER GIVE UP, NEVER THROW UP」

窮地に追い込まれても、ささやかに韻を踏んでみた。窮地においてこそ、その人の本性が現れる。

最後の難関は品川駅に停車するための制動時だ。急ブレーキをかければ進行方向にGがかかって、言われない不快感が襲ってくる。子供の時に車酔いに悩まされた私には、この制動時の苦しみがよく分かる。

定速度運動していた胃も慣性の法則には逆らえず、減速時には肋骨に押し付けられてしまうのだろう。ちょうど、オレンジジュースの入った紙パックを押しつぶすと、ストローのところから酸っぱい液体が吹き出てくるのと同じだ。これほど物理法則を恨んだことはない。

私だって、あの臭いがなければ、チーズを食べたいんだっ。粉チーズなんて誰が発明したのだ。

極限状態で支離滅裂になりながら、次回いよいよ品川駅に到着。

(つづく)
==========第五話(最終回)==========
品川駅のホームが見えた。減速し、この恐怖列車に乗り込もうと待ち構える人々の表情が見えるようになった。制動力が増し、ブレーキの軋んだ音が聞こえる。

もう若者の方を見ることはできなかった。恐怖に【対峙】することはできず、【逃避】することしか考えられなかった。

ドアが開く瞬間にダッシュして危機から抜け出すことしか考えてなかった。 列車が速度を落とす間、利き足である左足に体重をかけたまま、ひたすらドアが開くのを待った。スタートラインにつく短距離ランナーのように。



結論から言えば、私は助かった。嫌な汗が背中を伝ったけれど、スプラッシュマウンテンの滝の一歩手前で下車することができた。

列車から降りて人垣を掻き分けて歩きながら、肩越しに振り返ってみた。若者の姿は人ごみにまぎれて見えなかった。でも、液体の流れる音が聞こえたような気もした。

この列車は次に田町駅に向かう。恐怖の山手線は、深夜の東京を回り続ける。
ロシアンルーレットで負けるのは誰だろう?
スプラッシュマウンテンの滝を滑り降りた時の、恐怖におののく人々の顔を思い出した。

(おわり)

(あとがき)
このような下品な内容の駄文にもかかわらず、最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。
この話は、実際に体験した事実を基にした話です。大崎~品川間は3分間の乗車時間ですが、私にとってはスリル満点でした。この文章と同様、私にはとても長い時間に感じました。

実話に基づいているので、「悲劇のラスト」がなくてよかったです。

この体験以降、電車に乗る場合はどんなに急いでいても、どのドアから乗るかは、注意深くなりました。
皆さんもお気をつけください。

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