38. Piano Woman 2013
さて、変哲も無いとある日、家に帰ると陽子が難しい顔をして腕を組んでリビングに座っていた。
俺が帰ったことに気づかないようだ。
「・・・ただいま。」
俺が声を掛けると、ハッと顔をこちらに向けて
「あ、おかえりなさい。・・・ごめんなさい、気がつかなくて。」
その手には封筒と便せんのような物が。
「いや、それは良いけど。・・・どうした?」
すると、手にした封筒の中からチケットのような物を取りだして
「うん、高校の頃まで習ってたピアノの先生から、実家に手紙が来てね。」
そう、陽子は幼稚園の頃から高校までピアノを習ってて、プロ級の腕前だったんだ。
てっきり将来はピアニストか、ピアノの先生とかそっちの道に進むと思ってたけど、普通にOLになって、今では我が家の専業主婦だ。
「へぇー、何だって?」
「一緒の先生に習ってた浦栗有紗って子がいてね、私より上手な子で、プロのピアニストになったのよ。」
「陽子より上手い子がいたのか?」
「そりゃ、私なんかより上手い人達なんてごまんといるわよ。・・・で、いつもは海外で活動してるんだけど、この週末に東京でコンサートをやるんだって。で、先生の所にチケットを数枚送ってきたから、先生が私を誘ってくれたのよ。」
そりゃ初耳だ。
しかし上には上がいるもんなんだな?
「・・・特に週末は何も無いから、行ってくりゃ良いじゃん。」
「うーん、・・・そうしようかしら?実はちょっと迷ってたのよねえ。」
「先生ともその友達ともずっと会ってなかったんだろ?行って会って来なよ。」
俺が軽く言うと、陽子が呆れたような顔で
「あなたは簡単に言うけどねえ。・・・私がピアノの道を諦めるきっかけの子と会うのよ?ちょっと辛いかな?って思って。」
それも初耳だ。
「そう言えば何で、ピアノの道に進まなかったんだよ?・・・その浦栗って子がきっかけって?」
陽子が寂しそうに笑いながら
「まあ、私の気持ちの問題なんだけどね。・・・有紗ちゃんより上手になりたいって思って練習してたけど、彼女はいっつも私の一歩先にいたのよ。それで自分の限界に気づかされたってわけ。」
陽子にもそんな挫折した過去があったのか。知らなかった。
だから、夢とか浮ついたことに否定的な現実的思考になったのかな?
そんな陽子の過去を聞いて、俺はつい言葉を失ってしまった。
それに気を使ってか陽子が首を振りながら
「そんな現在も引きずってるわけじゃないわよ!ちょっと思い出しちゃっただけよ。・・・そうねえ、先生にも久々に会いたいし、行って来ようかしら。」
そんなやりとりがありまして、私陽子は先生と待ち合わせしていた都内の某駅へ降り立ちました。
お会いするのはもう20年以上ぶりぐらいだから、お互いわかるかしら?
待ち合わせの場所に佇んでいると、後ろから
「・・・あの、もしかして、陽子・・・さん?」
振り向くと、60代ぐらいのお婆さんが、恐る恐る私の顔を見上げていました。
髪はずいぶん真っ白になってるし、そして何だかお小さくなっちゃったような?
でも顔は見覚えのある、先生だわ。
「あーっ、先生!ご無沙汰してましたあ。お久しぶりですう。」
何か気持ち的に十代の頃に戻ったような気分ね。
私が先生の両の手を握ると、先生も嬉しそうに
「陽子さん!本当にお久しぶりね!・・・まあまあ、すっかり大人の女性になっちゃって!」
「先生はお変わりないですねえ!お元気そうで。」
・・・ちょっと社交辞令も入ってます。
大人になった証拠ですね。
すると先生は首を振りながら
「いいえ、もうすっかりお婆ちゃんよ。ピアノの腕もだいぶ落ちたわ。・・・でもね、腕は落ちたと言え、ピアノはまだ弾けるから、小学生以下限定で教えてるのよ。」
「そうなんですか。・・・まだ時間もありますし、立ち話もなんですから、お茶でも飲みながらお話しましょうよ。」
近くの喫茶店に入り、他愛も無い近況報告のような話をしました。
先生は私の話、純ちゃんのこと、樹莉亜のこと、そしてバンドのこと、そんな話を聞いては「まあまあ。」と嬉しそうに眼を細めて頷いていらっしゃいました。
優しいんだけどピアノに関してはお厳しかった先生も、お年を召されて何と言うか角が無くなった感じね。
開場時間が近づき、会場のホールに先生と向かいました。
有紗ちゃんが所属してるのは重奏の楽団で、何人かの奏者が曲によって形態を変えて演奏するなかなか面白い構成の楽団。
有紗ちゃんはもちろんピアノで、全曲演奏に参加していたわね。
私が逆立ちしても真似出来なかった、繊細で正確無比な指使いはさらに磨きがかかっていて、客席にいる私とステージにいる有紗ちゃんとの大きな差を痛感させられました。
でもそんな妬みにも似た感情も、ステージ上で繰り広げられる素晴らしい演奏に、吹き飛ばされちゃったわ。
やっぱり音楽って良いわーっ!!
圧巻のステージが終幕し、オーディエンスは皆スタンディングオベーション。
すると、先生が
「実は有紗さんに、打ち上げにお呼ばれしてるのよ。・・・私一人じゃ心細いから、陽子さんお時間あるようなら、ご一緒していただけない?」
・・・私なんかが行っても良いのかしら?
まあ、先生を一人置いて帰るのも気が引けたので
「じゃあ、ちょっと主人に聞いてみますね。」
やっぱり純ちゃんには許可取っておかないとね?
まあ、純ちゃんのことより樹莉亜の夕飯のことの方が心配なんですけどね。
早速、携帯で純ちゃんに連絡
「・・・もしもし、コンサート終わったのか?」
純ちゃんの声、若干慌ただしそうな感じね?
「・・・うん、終わったんだけどね。・・・実は先生と、有紗ちゃんの楽団の打ち上げに、ちょっとだけ参加しようと思うんだけど、良いかしら?」
すると
「おう、良いよ良いよ!もしかしたら遅くなるかもって思って、晩飯作ってた所だ。」
あら、珍しく気が利くわね?
何かちょっと純ちゃんを見直したわ。
すると、受話器の向こうから樹莉亜の叫んでる声が微かに聞こえた。
「パパーッ!何か焦げ臭くて煙出てるわよーっ!」
「何っ!?・・・ああ、こっちは大丈夫だから、陽子は心配しないでゆっくりして来て良いぞPi!」
・・・超早口でまくし立てて切りやがった。
ヲイヲイ、・・・マジででえじょうぶなんだろうな?
フライパンとか焦げ付かせたら、小遣いから差っ引くかんな?
私が自分でも分かるぐらい顔をひきつかせていると、先生が心配そうに私の顔をのぞき込み
「・・・やっぱり、帰りましょうか?」
ああ、先生に変な心配をさせちゃいけないわね。
「いえ、だ、大丈夫だそうです。私も有紗ちゃんに会いたいですし。」
先生はちょっと不安げに私の顔を見上げ、首をかしげながら
「そ、そう?・・・じゃあ、行きましょうか?」
会場からタクシーに乗り込み、会場からほど近くの結構高級そうなホテルへと乗り付けました。
何よもう!こんな所に来るって最初からわかってたら、もっとおめかしして来たのに!
って言ってもそんなご大層なドレスなんて持ち合わせていません事よ!オホホホホ!
・・・冗談はさておき先生を見やると、先生もその場の雰囲気に気後れしてしまっているご様子ね。
「じゃあ、先生行きましょうか!」
私が先生の手を引きエスコートし、いざ打ち上げ会場の中へ。
するとそこには、私達一般ピーポーが入り込めないような、いかにもセレブリティな場が。
しかも、外人だらけよ!
・・・私達ってば、すっごく場違い。
そのまま先生をエスコートして、Uターンしたい気分になった次の瞬間、
「先生!!・・・陽子ちゃん!?」
と、呼ぶ声。
その声の方を見やると、さっきステージ上でピアノを演奏していた有紗ちゃん、いやそんな気軽に呼んで良いのかしら?世界的なピアニスト浦栗有紗が手を振っている。
まあでもこの孤独な境遇の中、唯一の知り合いを発見してホッとした私と先生。
お互い駆け寄って手を取り合う。
「先生、お久しぶりです!・・・陽子ちゃんよね?お久しぶりね!」
疑問形なのはしょうがないわね、お久しぶりもぶりのほぼ四半世紀ぶりだもの。
「有紗さん!本当にお久しぶりね!・・・まあまあ、すっかり大人の女性になっちゃって!」
・・・先生、その台詞どこかで聞きましたよ?
「有紗ちゃん、ほんと久し振りね!・・・とっても素敵な演奏だったわ!」
すると、彼女は嬉しそうに
「ありがとう、陽子ちゃん!陽子ちゃんにそう言っていただけると嬉しいわ!・・・さあ、お二人ともこちらにいらして!」
場違いな雰囲気にどぎまぎしていた私と先生を、お料理が並ぶテーブルの方へ誘ってくれました。
・・・わあっ!!・・・すっごいお料理っ!!
そこには和洋中の煌びやかで美味しそうなお料理が、テーブル一杯に並んでいました。
・・・良かった、もし帰ってたら純ちゃんの失敗した料理を食べさせられてるハメになってたわ。
・・・ハッ!!そう言えば、樹莉亜は大丈夫かしら?
純ちゃんに変な物を食べさせられて、お腹を壊していないかしら?
・・・そうだ!ここのお料理、きっと残るだろうから、樹莉亜へのお土産にタッパーに詰めてくれないかしら?
・・・って、そんな貧乏臭いことを考えてるの、きっと私だけよね?
その後、先生と有紗ちゃんと私、美味しいお料理に舌鼓を打ちながら、音楽の話と昔話に花を咲かせました。
ふと、有紗ちゃんが私の顔をまじまじと見つめ
「でも、今日は陽子ちゃんに来てもらえて、本当に嬉しかったわ。」
私が有紗ちゃんに対しての他人行儀がだいぶ取れた感じになった所で、意地悪っぽく
「またまたーっ!どうせ、私なんか先生のおまけなんでしょーっ?」
と、言うと有紗ちゃんが真剣な表情で
「ううん、先生に私の成長した姿を見て欲しかったってのもあるけど、先生にチケットをお送りすれば、きっと陽子ちゃんを誘ってもらえると思ったのね。」
「・・・えっ?」
それなら直接チケット送ってよーっ。
有紗ちゃんがちょっとうつむき加減に、真剣な表情で
「私、陽子ちゃんに認めて欲しくて。・・・ずっと陽子ちゃんのプレイに憧れてたから。」
・・・・・はあ?何言っちゃってんの?こいつ。
自分より下手な私に憧れてたって、超意味不明だし。
「えっと、・・・それは冗談だよね?有紗ちゃん、私なんかよりずっと上手だったじゃん。」
すると先生が、ニコニコしながら
「有紗さんはね、ずっと陽子さんを目標に練習してたのよ。」
先生まで何を言い出すんですか?
二人で私を煽ててかつぐ気ですか?
・・・わかった!どっきりカメラね?
カメラはどこですかーっ?
私がキョロキョロとTVカメラを探していると、有紗ちゃんが
「先生の教室に陽子ちゃんとほぼ同時期に入門させていただいて、一緒に練習してた頃から、陽子ちゃんのとにかく元気でメリハリのあるプレイが大好きで。・・・私ってば何て言うか、か細い音しか出せなくてすっごく悩んでたの。」
私が世界的ピアニストのあり得ない言葉に、言葉を失っていると先生が
「二人が中学生になって個人レッスンを始めた頃、有紗さんはよく陽子さんみたいな音が出せないって涙してたわ。」
そして私と有紗ちゃんの手を取って
「人間の体って人それぞれなのよね。陽子さんは瞬間的に指先に力を伝えるのがお上手だったようで、メリハリのある元気な演奏が持ち味だったわね。対して有紗さんは指が細くて女の子らしい指先だわね。だから有紗さんには繊細に正確にスコアを表現する練習をしていただいたの。」
そして私達の顔を見渡して
「それで有紗さんは自然に、陽子さんを意識するんじゃ無く、自分自身にあった演奏技術を確立して、現在こうして人前で演奏できる力を身につけたのよ。」
暗に私が怪力女と言われてるようだったけど、有紗ちゃんにもそんな悩みがあったのね。
あの頃、有紗ちゃんはいつも私の一歩先にいる越えられない人だと思ってたけど、有紗ちゃんからすると私が一歩先に見えてたのかしらね。
「・・・私は有紗ちゃんには敵わないと思ってピアノを諦めちゃったけど、有紗ちゃんは乗り越えてプロになったのね。・・・凄いね!有紗ちゃんは。」
私が言うと、恥ずかしそうに微笑みうつむきながら
「ううん、陽子ちゃんって目標があったから私はここまで来れたと思ってるの。・・・だから現在の私があるのは、先生と陽子ちゃんのおかげなのよ。」
そう言われて私は胸が熱くなって、目にジワッと涙があふれ出てるのがわかったわ。
ふと見ると、有紗ちゃんの目にも涙が溢れていました。
先生も感極まったのか私達の手をギュッと握りしめて
「・・・本当に二人とも私の自慢の教え子だわね。」
と、仰って下さいました。
最初は迷ってたけど、何か長年の胸のつかえが取れたようで、今日ここに来て本当に良かったわ。
するとタキシードを着た男性が近付いてこられて
「浦栗様すみません、他のお客様よりピアノのリクエストがございましたので、一曲披露していただくわけにはいかないでしょうか?」
すると、有紗ちゃんが涙をぬぐいながら
「・・・そうねーっ?・・・そうだ!久しぶりに先生のプレイをお聞きしたいわ!・・・先生お願いします!」
すると、先生が慌てて首を左右に勢いよく振りながら
「ダメよ私なんて!もうすっかりお婆ちゃんで、腕も落ちちゃったもの!」
私も悪ノリして有紗ちゃんに同意し
「ええーっ!私も先生のピアノ聞きたいなーっ!・・・先生お願いしますーっ!」
と二人で代わる代わる何度かお願いすると、根負けしたようで
「・・・しょうがないわね、じゃあ一曲だけね。皆さんのお耳汚しにならなきゃ良いんだけど。」
と言うと、会場の隅にあるグランドピアノの椅子にチョコンと腰掛けました。
場内がざわつくと、有紗ちゃんがマイクを取って
「私が尊敬する人生の恩師です。」
と英語で紹介すると、拍手が巻き起こる。
拍手が鳴り止むと先生がカッと目を見開き、おもむろに鍵盤の上に手を滑らせ始めました。
・・・凄い!何て表現力!
衰えてるどころか、ますます進化してるじゃない!
小さなお婆さんが、見た目からは想像出来ない力強さと繊細さを併せ持った圧巻の演奏を繰り広げ、あっという間に場内の空気を支配してしまったよう。
誰もが微動だにせず口を開け、その演奏に圧倒されてしまっているわ。
演奏が終わり、先生が深々とお辞儀をすると割れんばかりのスタンディングオベーション。
その中心にはあんな凄い演奏をしたピアニストじゃなく、ニコニコした小さなお婆さんが立っていました。
有紗ちゃんが私の側に魂を抜かれたようにフラフラッと戻って来たので、
「有紗ちゃん、・・・もう私を目標にしてたなんて事は忘れて、あの化け物みたいな方を目標にしなさいよ。」
と言うと、眉をハの字にし私の顔を潤んだ瞳で見つめ
「・・・陽子ちゃん、私先生みたいな怪獣を超えるなんて自信、全然無いわ!」
泣きそうな声で呟きました。
・・・確かにね。
って、化け物とか怪獣とか言い過ぎました。
・・・すみません先生。テヘッ!
やがて、パーティが終わり有紗ちゃんと再会を約束し、ピアノモンスターのお婆ちゃんを連れて会場を後にしました。
先生と別れ自宅へ帰り、玄関を
「ただいまーっ!」
と開けると、ほのかに焦げ臭い匂いが鼻につきました。
「ママ、お帰りなさーいっ!」
「・・・よう、お帰り。コンサートどうだった?」
樹莉亜と純ちゃんが迎えてくれました。
「凄く良かったわよ。・・・それより食事はどうしたの?ちゃんと樹莉亜に食べさせてくれた?」
純ちゃんが答えに困ったような顔をすると、樹莉亜が
「パパがお肉を焦がしちゃったから、コンビニのお弁当よ!」
ゴミ箱を覗くと、真っ黒な炭に変わり果てたお肉だった物質が捨てられていた。
「あーあ、・・・勿体ない。」
と言いながら純ちゃんを見やると、純ちゃんが頭を掻きながら
「・・・いやあ、・・・すまん。主婦って大変なんだなって今更ながらわかったよ。」
すると樹莉亜が
「でもコンビニのお弁当も美味しかったわよ!ママのお料理には全然敵わないけど。」
・・・やれやれ。
またしがない主婦の生活に戻って来ちゃったわね。
まあピアノを続けて成功した有紗ちゃんがちょっと羨ましくも思えるけど、私はこの生活でも十分満足よ。
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