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令和三年 あけましておめでとうございます

 本年もよろしくお願い致します。
 令和二年は、新型コロナウイルス禍が広がり、成田にとって試練の1年となりました。令和三年は必ず成田が復活する祈らずにはいられないという方が多いのではないでしょうか?実は、私はなにがあっても成田は必ず復活し、繁栄し続けると確信しています。なぜでしょうか?成田は「三方よし」で栄えてきた街だからです。
 「三方よし」の歴史を考えてみます。成田は昔から門前町としてお寺と住民が協力し、公を巻き込み栄えて来ました。古くは室町時代から1565年まで成田山のご本尊を守ってきたと言われる名主の諸岡三郎左衛門家、あるいは不動明王像を背負って遷座した成田村一七軒党の方々の話も伝えられています。お寺と住民が一体で活躍した事例で明確に歴史に残っているのは、やはり最初の出開帳ではないでしょうか。お不動様の成田山の中興は、江戸「出開帳」がその礎となりました。成田山のご本尊を江戸に運んで、御開帳された大きな事業です。この事業には、三方よしの精神が発揮されています。出開帳は、新勝寺のご努力に加え、佐倉藩の助け、成田村の方々の尽力で実現したと聞きます。
 新勝寺からいただいた「新編成田山史」193ページに成田山中興、照範上人についてこう書いてあります。照範上人は、三代に渡る住職の悲願であった本堂新築を成し遂げた上人さまです。

照範上人の手腕として特筆すべきことは、後世成田山の名が全国的に広まる要因となった江戸出開帳をはじめて開催したことである。まず元禄十四年(一七〇一)に本堂落慶記念として自寺で居開帳を行い、翌々十六年四月には、江戸深川永代寺八幡宮境内で最初の出開帳を行ったのであった。

更に続けてこうあります。

この出開帳は江戸の信者との結縁、ならびに本堂建立時の借財500両の浄財勧募を目的としたものであったが、まだそれほど江戸民衆に名の通っていない下総の片田舎の寺が、江戸に初進出して開帳を行うのは、いわば危険な賭けであった。成功するかしないかは住職照範上人の腕にかかっていた。しかし成田村の領主で成田山の大檀越となっていた佐倉藩主稲葉正通(後名正往[まさゆき])が、幕府の老中の職にあり後ろ盾になっていたからこそ、江戸出開帳を行うことができたのであろう。

 成田山を全国に知らしめるこの最初の出開帳の成功には当時の成田村の村民も大きな協力をしたことは地元ではよく知られています。この写真は安西無恕さんのホームページに載っていたものです。ご本尊をこの中に入れて成田の村民が江戸まで運んだのだそうです。

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 現代的な言い方をしてしまえば、照範上人はマーケティングの天才であられたのではないでしょうか?水戸光圀公とのつながりも語られる聡明方な上人様はいわば大きな事業者であったと。ここに「公」である佐倉藩、そして充員である成田村の村民の力があって成功に導かれたのだと私は理解しています。

 成田への鉄道開通も新勝寺の大僧正様の発起により、事業会社、地元の方々の協力があって実現したと聞きます。ちなみに、弊社の創業者、平山金吉も鉄道が成田に来たことにより芝山から出てきて事業を起こしたと伝え聞いております。同じく「新編成田山史」から引用させていただきます。392ページです。

 明治20年(1877)5月に私設鉄道条例が交付されると、全国的に鉄道建設ブームが起こり、成田山への参詣客輸送を目当てにした鉄道計画が持ち上がった。(中略)明治22年9月には佐倉・成田・佐原を結ぶ北総鉄道が計画された。この計画には照鳳上人も発起人に加わり、実現に尽力したが、短距離鉄道は採算がとれないことから却下された。
(中略)中興第十四世三池照鳳上人は北総鉄道が却下されても鉄道敷設を諦めなかった。小倉良則と共に東京の大実業家である大倉喜八郎や初代千葉県令の柴原和らを発起人に加え、明治26年7月に下総鉄道株式会社を創立した。

 鉄道の開通は、後にブラタモリでも紹介されたように明治以降の成田山詣での大流行に直結しました。

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 成田空港も、昭和41年の閣議決定当時、成田は三方よしの精神で受け入れを決めたのだと理解しております。多くの自治体が空港受け入れを拒絶する中、当時の藤倉市長が空港受け入れのご英断をなさいました。天皇陛下の牧場である御料牧場の敷地を国が空港の敷地として利用する計画を立てたことから始まったと聞きます。いろいろな騒動はありましたが、最終的には成田の商工業者を中心に応援活動をし、空港と共に成田が成長してきました。B滑走路の共用開始、第三滑走路の決定への署名活動は記憶に新しいです。藤倉武男元市長は、成田市の名誉市民として讃えられています。

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 近年においては表参道のセットバック事業の発祥である上町街づくりが、下田康生堂のご主人の発案により実施されました。下田さんの企画に基づき、成田市がセットバックした各商店土地の買取に応じることを決断。最初は賛同者が決して多くはありませんでした。しかし、次第次第にたくさんの商店主の方々の発憤がし、セットバックに協力いただきました。結果として、現在の美しい街並みが形成されました。
 更に、京成成田駅東口地区も三方よしで変わりました。平成2年に価格整理事業が竣工してから駅前であるのにずっと青空駐車場ばかりでした。街づくり協議会のみなさまの請願により、成田市が迅速に地区計画の見直しを行ってくださり、私達のような事業者がマンション、ホテル、駐車場などを建設するようになり見違えるような発展が数年の内で実現されました。

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 寛容、互助の精神がしっかりと根付き、三方よしで発展を続けてきた街、成田には明るい未来があると確信しております。本年もよろしくお願い致します。

 以上は、実はエリート情報の元旦号の原稿をもとに書きました。紙面が限られている中、なかなか実証的にかけなかったので捕捉しました。歴史などには素人の私が書いておりますので、事実と異なることもあるかもしれません。ご指摘いただければ幸いです。


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