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その日は、どういうわけか、
彼女が仏閣巡りをしたいと言いだした。
そういう理由もあって、
この休日の行き先は「鎌倉」を選んだのだ。

しかし、解せない話でもあった。

なぜなら、彼女は敬虔な「クリスチャン」だからなのだ。
そんな、洗礼名まで持つ彼女が、
なにゆえお寺巡りをしたいのか。

しかも「坐禅体験」をしてみたいと言い出す始末だ。
もしかして、改宗でもするつもりなのか?

そう思って訊いてみたら、
「あんた、バカ?」
みたいな顔をされて、きっぱり否定された。

そこまで言うか。とも思ったが、
ここは彼女のかわいさに、小さな腹立ちを割り引かせて、
もう一回訊いてみた。

「原罪の本当の意味を知るためだよ。」
「原罪?」

 妙な反応だった。キリスト教のそもそもの原点である
「神への原罪」という意味なのだろうが、
それと仏教がどんな関係があるというのだろう。

 彼女が敬虔に「原罪」を考えてみたところ、
どこかで聞いた「無明」とか、「無知」に通じるというのだ。
 ソクラテスの「無知の知」であるとも言えるかも知れない。
とすれば、、彼女の考察は、
そもそも、人間の存在への根源的な「倫理」への問いなのだろう。

「うん、それが仮説なのだよ・・。」

なんだか、哲学の講義の中にいるようで、
ちょっと頭が痛くなったけれども、
なんだか面白そうな話だなぁ。
とも思いつつ、その日、
クリスチャン彼女の、仏教との「邂逅」に
つきあってみようと思ったのだ。

全く彼女はマイペースだ。

「あ、坐禅体験させてもらえるみたい・・。」
そこは建長寺などの「五山」のような、大きなお寺ではなく、
ごく小さな堂宇ではあったが、小さな禅堂があり、
空きがあれば体験させてくれるというのだった。

で、たまたま空いていたというわけだ。
ありがたいことに「法話」もしていただけるという。

  なんとなく「お布施」の額も気になったが、
「気持ち」の問題だとか。
拝観料の相場くらいで良いよと
こっそり「寺務所」の人が耳打ちした。
その辺は結構ちゃっかりしているものだ。

 彼女と並ぶかたちで、禅堂の細長いスペースで、
壁に向かって結跏趺坐を組んだ。
ふと隣を見ると、彼女はロングスカートを「裳掛坐」のように広げ、
たぶんスカートの中で結跏趺坐を組んでいるようだった。

 それが「仏像のように」妙に神々しいのだ。
スカートの上で「法界定印」を結んでいたので余計そう思った。

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約90分

途中で、一度、警策の洗礼を受けた。
ピシッという音が緊張感をもたらす。
ほどよい痛みだった。

 講義と同じ時間、「ただ座った」
 これを「只管打坐」というのだそうだ。

「座ったまま、そのままでお聴きください。」

やがて導師の声が聞こえた。坐禅した形のまま、それを聞く。

「ただ座るとは、おのが分別をなくし、
尽十方界真実に同一となることです。」

という言葉から始まるその話は、
「尽十方界真実」とは宇宙の摂理であり、
あるがままの「宇宙の現実」だと言うことだ。

それに対して、このちっぽけな人が
ああでもないこうでもないと「分別」の心を起こすから、
「煩悩」に陥るのだ・。

・・・と。

「・・あ、そうか・・。」

彼女が小さくつぶやいた。
「・・尽十方界真実は、創造主。
分別は知恵の実、そしてそれを食べた事が原罪・・
すなわち煩悩だ。」

 うん、得たり・・。
そんな顔を彼女は僕に向けた。

ハイブリッドで「悟った」な・・・。

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