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ムダに教養がつくかも知れない不定期な雑学講座の連載(講義中は寝ないこと)~世界宗教の基礎知識2「仏教」をひもとく  第2講 大乗仏教の成立 その3

ブッダになる方法とは?

まず、「悟り」を開いて、ブッダにはどうしたらなれるのか。
と、こういう目標が生まれます。

 それならば「ブッダの足跡」をたどり、
そのまま実践すればブッダになれるのではないだろうか。
という論法が当然生じます。

 ところが、ブッダの足跡を示したであろう、
涅槃経などの「仏伝」には、
どこにもゴータマがブッダになる「特別な修法」は見いだせません。
であるなら、やはり人はブッダにはなれないのではないのか?
という結論に達してしまします。

 しかしながら、なにゆえ「ゴータマ」はブッダになれたのだろうか。
当時の人々は考えたであろうと思います。

そこで、このように考えたとします。

「ゴータマ」も元々自分たちと同じ普通の人で、
様々な輪廻を繰り返してきたはずだが、
前世で一人の「ブッダ」に出会い、
菩薩となって修行を積み、
そして現世における「ブッダ」となった
のではないか。

 つまりお釈迦様の過去世になにかあり、
それが元になってブッダになることができたというわけです。
過去のブッダと出会った「ゴータマ」は
その過去のブッダに
「私もブッダになる」という誓願を立てたということです。

ブッダはたくさんいる。という発想

そして、過去仏から将来の成仏の証として「授記」をもらい、
何度も生まれ変わりを繰り返して修行を行い、
現世で悟りを得た。という流れになります。
その際に何人ものブッダと出会い、修行を重ねていった。

 ですから、凡夫である私たちも必ずブッダになることができる。
という考え方が生まれます。
誓願と授記を手にした輪廻ですから、
たとえ人間の姿でなくても、
菩薩であれば正しい菩薩の生き方をすれば、
すべて修行になるという考え方です。

こうやって作られたのが「前生譚」と呼ばれるもので、
お釈迦様の前世の善行のエピソードが綴られています。

 これが、出家修行することなく
「悟りに至る=ブッダになる」事ができるとした
「大乗仏教」のベースの思想となります。

すなわち、自己犠牲に基づく利他行による、
善行がベースであることです。
そしてその究極の善行が「ブッダを崇め、供養する」ことであり、
これによって自身がブッダになれる。
という結論になります。
つまり、ブッダそのものにはどうやって会うことができるのか
が大きな大乗仏教の課題になるのです。

会えないブッダに会うにはどうしたらいいかという課題が、
大乗仏教の経典を生んだというわけです。

出家しなくてもブッダになれる方法

さて、「在家のままでブッダになれる」という大乗仏教の命題を、
始めに理論化したのが「般若経」の経典群です。

 この経典群でいうと、「般若心経」
あたしたちにもなじみが深いお経ですが、
「心経」というくらいですから、
「般若経」の肝心のエッセンスをコンパクトにまとめたモノです。

 ある意味「映画の予告編」のような
意味合いだとする考えも、いいのじゃないかともいえます。
まぁ、それだけにインパクトが強いとも言えますが。
ある意味、あの256文字ですべてを言い表してる、
究極の要約でしょう。だからすごいのかもしれませんね。

 ところで「般若」というのは「パンニャー पञ्ञा,」
というパーリ語、あるいは「プラジュニャー प्रज्ञा,」
というサンスクリット語の漢訳で、
「全ての事物や道理を明らかに見抜く深い智慧」という意味です。
それで、これらを明らかにした経典群が「般若経」というわけです。

 実は、「般若経」だけでたくさんのお経が存在し、
それぞれサンスクリット語、チベット語訳、で10種以上。
漢訳のものでは40種以上が確認されています。

成立年代の古い順に、まず教義の基本となった
「小品系般若経」が成立し、
それがどんどん中身を膨らませていき、
「大品系般若経」という系譜にまとまっていきます。

 そしてついには「十万頌般若経」という
長大な経典にまとめられます。
これが初期の般若経です。

つづいて、「金剛般若経」、「般若心経」が登場しますが、
この時期は大品系とは反対に、
無駄な内容をそぎ落とし、
その究極が「般若心経」と言えるのでしょう。
 その後、密教の要素を含んだ「般若理趣経」が登場し、
その集大成として「大般若経」が成立します。

 このように複雑な経典が存在するのですが、
「智慧」の習得という根本原則は
これらに一貫した思想です。

「智慧」の習得で私たちはブッダになれる

 その具体的な内容をざっくりひもといてみましょう。

 その基本となる考えは、
誰もが「ブッダ」になることができる「因」と「縁」を 
持ち合わせていると考えることから始まります。

すなわち、私たちはすべての過去において
すでにブッダと出会い、
ブッダになる誓願を立てているのだ。
という前提条件から始まります。

すなわち、「般若経」の中においては、
誰もが誓願を立てた「菩薩」である
という事が前提となります。

だいたいの人は過去世で
「ブッダ」に出会ったことは忘れてしまっているので、
この経を読んだり、唱和したり、写経すると、
心が洗われないか?
というアプローチを「般若経典」は語りかけるのです。

 そして、私たちはすでに「菩薩=ブッダ候補生」なのだから
この世の生活で善行を重ねて生活すれば、
やがて悟りを得てブッダになれる。
という考え方に発展していきました。
これが「すべての心の救済」たる所以の
大乗仏教の根本理念になるのです。

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