文舵練習問題 第6章 人称と時制

〈練習問題⑥〉老女

時間がかかりすぎた。あまりいいできではなないし、時制と人称をひっくり返して書く二作品目もできていない。後半は明らかに手が抜けている。いろいろ反省してます。

【本文】
 iPhoneの画面に白いヒビが入ってるように見え、あら、どこかにぶつけたのかしら、とちょっと気がへこんだ。ルーペを取り出してよく見ると、なんのことないシゲルの毛が一本張り付いていたのだった。キジトラなのにこんな白く光る毛があるなんてね。ふっと息を吹きかけると、飛んでいった。冬毛に生え変わる季節だから黒いものは着ないほうがいい、大昔に一年だけ一緒に暮らした画家が言っていたのを思い出した。大きな荷物は業者の作業ロボットが運んでくれて貨物機に積み込まれた後だったが、小物の整理と簡単な掃除にまだ時間がかかりそうだった。私は少しだけ休みたいと思った。湯を沸かし、紅茶を入れた。ホーチミンシティの市場で買ったセラドンのポットだ。セイロン産の細かい茶葉がポットのなかで舞い香った。家具がなくなってガランとした部屋を眺めながら、ひとりで暮らすには広すぎたのかもしれないなと今更のように私は思った。カップを置くのを待っていたかのように膝の上に飛んできたシゲルの爪が足に引っかかった。思わぬ引っかき傷の痛みが、四十年前のあの日を思い出させた。
「なんかお正月みたいな」ソファに裸で寝転んでタブレットを眺めながら祥子が言う。「あの人たちとはシステムが違うんだから仕方ないよね」私は、祥子がやめろというのも聞かず、バルコニーから様子を眺めている。幹線道路を西へ向かって行進していく政府軍。自律戦車と自律兵はもう攻撃をしてこない。町は反撃する機能も意志もすでに失っている。
「アンナがこの町を出ると決めてくれていればね」祥子がつまらなそうに言い、私は、聞こえないふりをする。マンションの下のほうから、バイオリンの演奏が聞こえてくる。去年国際コンクールで入賞した音大生の若者だ。政府の制約を受け海外での演奏活動ができなくなっているという。マンションのエントランスにはサングラスをかけたコート姿の公安がいつも立っている。「もう、一緒に住めなくなるかもね」と彼女が言う。
 忘れていたはずの記憶が紅茶の香りとシゲルの引っ掻き傷で甦った。またどうせ忘れてしまうのだ。本棚のあった場所に積み残してあった一冊のノートを繰りながら、捨ててしまおうか、カバンに入れて持っていこうか迷った。「メモ」とだけ題されたノートには、毎日の暮らしのなかで忘れたくないことを描いていた。それは、夢の内容、朝食のメニュー、窓に飛んできた鳥のスケッチ、思い出した昔の話、などだ。とっくの昔に終わったこと。
「そろそろ、貨物機を出したいのですが」と引越し業者の作業ロボットが言う声が聞こえ、私は、紅茶を飲み干した。オレンジとストロベリーの微かな香りが鼻の奥に漂う。
 バイオリニストの子を監視していたと思ってた公安は、どうやら祥子に付けられていたらしい。欧州のウェブマガジンに掲載した匿名の詩のせいかもしない。絶対に彼女とは結びつかないはずだったのに。玄関先に現れた公安の男は祥子を連れて行く。私は、たぶん、それからずっと一人になる。
 軽く洗ったポットとカップを新聞紙で包み、トートに入れる。ノートが一冊、視界に入るがそれが私にとって大事なものなのかどうか、解らなかった。だけどシゲルのことは憶えていた。引越し業者のロボットは部屋を点検した後「それでは参ります」と言って、マンションのエントランスまで私とシゲルを運び、車に乗せてくれた。車が走り出すと、マンションのほうから、とっくに死んでしまったバイオリニストが奏でる無伴奏パルティータが聞こえたような気がした。私は、どこに行くのかも忘れていた。そもそも、このマンションで暮らしていた記憶も薄れそうとしていた。


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