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昭和の卒業ソング🌸 70年〜80年代を振り返って

こんにちは、Hideです🌸

昨日の夕方に驚くニュースが舞い込んできました。

世界の二刀流で、東北の星でもある大谷翔平選手が結婚したという明るいニュースです。

今まで、色んな噂がありましたが、本物のお相手はどうやら一般女性のようです。

突然の事で驚きましたが、本当に良かったですね。大変喜ばしいことです。

これで大谷選手も、今より増して安心してプレイに集中できるでしょうね。

末長くお幸せに…

春が近づいた日にめでたいニュースが届きましたが、今日3月1日は卒業式が行われる日でもあります。

私も高校の卒業式は3月1日でした。

1983年の卒業だったので、もうあれから43年もの月日が経ってしまいました。

1983年といえば、4月に東京ディズニーランドがオープンした記念すべき年なのです。

自分では、そんなに月日が過ぎた感じはありませんが、気がつけばあっという間でしたね。

今回は、昭和生まれで昭和育ちの私が選んだ、昭和50年代〜昭和後期の60年代(1970年代〜80年代)に多くの人に聴かれた卒業ソングを紹介していきます。

昭和プレイバックって感じでお送りしていきますね。


卒業写真 / 荒井由実 1975年6月20日発売

作詞作曲:荒井由実 プロデュース:村井邦彦

元々は、ハイファイセットのデビューシングル曲として楽曲提供したものを荒井自身がセルフルカバーしてシングルとして発売した曲です。

学生時代を過ごした日々を、静かに振り返るように歌っているバラード。

この曲で一つ驚いたのは、歌詞の中に出てくる卒業アルバムの表紙が、革製であったことには、田舎の学校を出た私にとっては衝撃的でした。

やはり東京は卒業アルバムも革製で、こっちとは違うんだなぁ〜と、しみじみ思うのでした。

当時、友人の卒業アルバムを見せてもらっても、デザインはそれぞれあれど革製の表紙なんてなかったですよ。都会への劣等感を感じてしまいましたね(笑)

大人になってくると、何で革製だったのかがわかってくるのです。

要は、ユーミンは裕福な実家に育ち、おそらく私立の立派な学校に通っていたのでしょうね。

卒業をテーマにしたコンピレーションアルバムなどには、ハイファイセットのバーションが収録される場合が多い。

ユーミンが提供した楽曲の中では「いちご白書をもう一度」と並ぶ70年代を代表する一曲になり、後世にも卒業ソングとして多くの歌手にカバーされ歌い継がれ、人々の心に長く残る名曲である。

卒業する時の心情や、好きだった人への思いが、この曲から伝わってきます。

流石、日本を代表する女性音楽クリエイターだと感じます。

時を経ても色褪せない卒業ソングです。

贈る言葉 / 海援隊 1979年11月1日発売

作詞:武田鉄矢 作曲:千葉和臣(海援隊ギタリスト)

オリコン週間最高順位1位 オリコン1980年年間順位6位

1979年10月からTBSでスタートした「3年B組 金八先生」の主題歌として有名な曲。

当時、私はドラマと同じ中学3年生で、自分の境遇と同じだったシチュエーションの中、観ていたので共感や驚きなど沢山の思いがありました。

中学の最後に思い出深いドラマと曲に出会いました。

因みに当時同ドラマに生徒役で出演していたのは、田原俊彦・近藤真彦・野村義男(たのきんトリオと呼ばれた)、杉田かおる、鶴見辰吾、つちやかおり、三原順子、小林聡美、藤島ジュリー景子等々…のちに俳優や歌手として成功した者や、芸能界を経て国会議員になった者、俳優業を退き親の仕事を引き継ぎのちに大きなトラブルの始末をしなければいけない立場になってしまった者など、その後の人生は様々だった。
特に最終回は感動的で観ていて思わず感涙してしまいました。

最終回は、生徒役や先生役の出演者全員がドラマの世界に入り込んでいて、台本にないセリフも飛び出してしまうくらい、その場の皆が一体化してドラマではないと感じる空気感だったというエピソードが残っている。

ドラマ最終回の終了後に、海援隊が初の武道館公演を行い、ドラマ人気もあり超満員の中コンサートは行われ、ドラマに出演していた3Bの生徒役のメンバーも武道館に駆けつけていた。

贈る言葉を歌った際に、間奏で3Bの生徒達に送ったメッセージは、さすが金八先生と感じる良い言葉だった。

”私はあなた達を愛しました あなた達も私を愛してくれました 何故ならあなた達は愛するに値する 素晴らしい生徒達だったからです〜”

いやいやさすが、実際に国語の教員免許を持っている武田鉄矢、いや金八先生ですな〜

この言葉を言った時は、金八先生になっていましたね。

実はこの1980年3月の海援隊武道館公演に、私も千葉に住む従兄弟と一緒に観に行っていました。

なので尚更のことこの曲への思い入れは強くなったのです。

ドラマの内容と同じ中3の時期にリアルタイムでテレビを観て、おまけに3Bの生徒役まで駆けつけた武道館公演にも参戦したとなればそれも当然ですね。

私にとって、「贈る言葉」は卒業ソング以上のインパクトと思い出を与えてくれた一曲です。

私の少年時代を語る上では、欠かせない卒業ソングです。

制服 / 松田聖子 1982年1月21日発売 「赤いスィートピー」のB面

作詞:松本隆 作曲:呉田軽穂(松任谷由実)

B面の「制服」の文字がA面と同じ大きさになっている

聖子の最高の名曲「赤いスィートピー」のB面として発表されたが、こちらの
制服もA面に負けず劣らずファン方の支持も多く人気の曲となった。

作詞家の松本も元から「制服」の方が自信があり、当初は途中からAB面を入れ替えてロングセラーにする予定であったという。

A面の「赤いスィートピー」が予想以上の支持を集めた為、A B面を入れ替える計画は実現に至らなかった。

後年作曲者のユーミンも音楽雑誌のインタビューで、この曲を気に入っていると話していた。

雨の中の卒業式で、ずっと片想いだった卒業後に都会へ行ってしまう彼に告白しようとするが、思いを伝えきれなかった切ない乙女心を描いたところも、さすが松本・ユーミンコンビの名作だなぁ〜と感銘を受けました。

雨の中の卒業式が終わった後の、揺れ動く乙女心がリアルにこちらに伝わってくるので、身近に感じられるこのシチュエーションが聴いてるファンにも共感が得られ、自分のことにように感じてしまうのがこの曲の凄いところだ。

82年当時、私は高校2年生で、まだ卒業には1年あり、男子校という境遇だったにも関わらず、この曲の女の子の心情に共感してしまった。

この曲は、男女どちらからも共感と支持され聖子の卒業をテーマにした名曲となった。

今でもこの曲を好きで、カラオケで歌っている女性も多いと思う。

「制服」を聴くとあの頃の気持ちに戻った気になる。

やはり音楽にはそんな不思議な力があると、感じさせてくれる心に残る卒業ソングです。

春なのに/ 柏原芳恵 1983年1月11日発売

作詞作曲:中島みゆき

中島みゆきが作った昭和の卒業ソングの名曲

オリコン週間最高順位:6位 TBSザ・ベストテン:2位

第25回日本レコード大賞 金賞受賞 売上枚数33万枚 公称では61万枚

この曲が発売された83年は、私がちょうど高校3年生で、卒業を控えた時期にリアルタイムで聴いていました。

歌詞の「春なのにお別れですか〜春なのに涙が溢れます〜春なのに 春なのに ため息また一つ〜」という、乙女心の悲しさが伝わってくる印象的なフレーズでしたね。

その詩に合うマイナー調のメロディーが、また詩の内容を引き立たせていました。

さすが失恋ソングを作らせたら、この人の右に出る者がいないと言われた中島みゆきの作品です。

先程紹介した「制服」はユーミン作でしたが、また違った作風でそれぞれの持ち味というか感性が伝わってきますね。

ユーミンとみゆきはお互いライバル関係であり、ユーミンはどうしても超えられない壁として、中島みゆきの名を挙げていました。

レコード枚数やヒットチャートにおいても、超えることができなかった中島みゆきを超えることがユーミンのミュージシャンとしての目標であり、モチベーションになったのでしょう。

どんな世界にも好敵手(ライバル)は自分を高めてくれるために必要不可欠なものなのですね。

その後、ユーミンがエッセイ本を出版したあたりから、形勢が逆転していったようです。

しかし、どちらも日本を代表する女性音楽クリエイターであることは誰が見ても明らかです。

大体色はそれぞれ違えど、どちらかに優越をつけるなんてことはナンセンスですよね。あとは聴く側の好み次第になるという事です。

話は脱線しましたが〜

柏原は、この曲以降も度々中島みゆきに楽曲制作を依頼している。

84年発表の「最愛」は特に高評価を受けた作品でもある。

中島の作った楽曲を歌いこなすだけの歌唱力と表現力を柏原が持つシンガーだったと言える。

私は、元々柏原よしえ(旧芸名)が売れる前からのファンで、一度地元でコンサートにも行っています。*82年発売の「花梨」(谷村新司の楽曲提供)から、芸名の名を”よしえ”から漢字の”芳恵”に変更した

「ハローグッバイ」の次の曲の「恋人達のキャフェテラス」が出た頃かな〜

高校2年の終わりか3年になったばかりの頃か記憶は曖昧ですが、地元の県民会館で観たのを覚えています。

グッズの赤いタオルで白字で感じで柏原よしえとネームが入っているスポーツタオルを購入しましたが、今では見当たりません。

もっぱらタオルは”E.YAZAWA”の物ばかりです(笑)

昔からの親しい友人がこの曲が凄く好きで「この歌 いいなぁ〜」と感慨深げに何度も話していたのが記憶に残っています。

とにかくこの曲も、当時多くの人が聴いて乙女の恋人と別れる悲しみの歌に感動していました。

卒業をテーマにした悲しい乙女心を切実に表現し共感を得た素晴らしい卒業ソングだと思います。

卒業 / 斉藤由貴 1985年2月21日発売

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 プロデュース:長岡和弘(元甲斐バンドのベーシスト)

この頃の斉藤由貴は可愛いですね〜

オリコン週間最高順位6位 TBSザ・ベストテン:6位

この曲が発表されてから40年近く経過した今でも人気の高い曲である。

当時、斉藤は18歳でちょうど高校卒業の年にこの歌でデビューした。

私は、斉藤より2歳上なので当時は二十歳で、2年前に経験した卒業の気分を思い出させてくれた曲でした。

可愛らしい顔をして柔らかい雰囲気で歌う斉藤由貴は、好感を持って聴けた。

この曲発売の2ヶ月後からドラマ「スケバン刑事」の主役を務める。

スケバンの高校生が警官として悪をやっつけていくといったストーリーだったが、この「卒業」を歌う姿とのギャップがまたウケたのだろう。

ちなみに私はこのドラマを知ってはいたが毎週観ることはなかった。

この頃になると、アイドルの曲もかなり洗練されていて、ニューミュージック系の作家やシンガソングライター等から楽曲提供を受けるなど、昔ながらの歌謡曲とは路線が変わってきたように感じた。

後にJ-POPと呼ばれるようになったのは、80年代から変革して行ったからだろう。

サウンド面でも、ただのアイドルの曲と思えぬアレンジやクリエイティブで時代を反映した煌びやかなサウンドであった。

プロデュースが元ロックバンド甲斐バンドのベーシストだった長岡和弘だったこともサウンド面に大きな影響を与えたのだろう。長岡は、体を壊し甲斐バンドを脱退するまで、音作りなどバンドの中心的存在として甲斐バンドのサウンド面を担っていた。

これは、甲斐よしひろがパーソナリティを務めるラジオ番組で甲斐自身が長岡が脱退を表明した時に、彼がいなかったら甲斐バンドは成功しなかったと語っている。

松本・筒美ののヒットメーカーを作家陣に迎え、当時日本一のライブバンドとして活躍していた元甲斐バンドの中心的ミュージシャンがプロデュースしたわけだから、優れた作品となるのは当然の事だった。

その豪華スタッフに応えることの出来たのだから、一見ふんわりと見える斉藤だが、表現者としてやはり優れた感性を持っていたのだろう。

斉藤も幾度となくスキャンダルを経験して、それを肥やしに進化して表現者として進化していったのだと思った。

57歳の現在でもドラマ等で活躍している姿で証明されるだろう。

昭和の後期、これまでとは違った感じのアイドルが歌う新しい卒業ソングの誕生だと言えるだろう。

じゃあね / おニャン子クラブ 1986年2月21日発売

作詞:秋元康 作曲:高橋研 編曲:佐藤準

おニャン子を卒業するメンバーが仲間に「じゃあね」と明るく別れを歌った

オリコン週間最高順位:1位 TBSザ・ベストテン:7位

1985年からスタートした平日夕方に放映されていたテレビ番組「夕やけニャンニャン」から誕生したアイドルグループおニャン子クラブの3枚目のシングル曲。

おニャン子クラブは作詞家でもある秋元康がプロデュースした、メンバーが50人を超える大所帯の女性アイドルグループ。

現在のAKB48や乃木坂46の前身となったグループ。

このグループのコンセプトは、クラブ活動感覚でアイドルになり芸能活動を行う女子高生達というものだった。

メンバーにはそれぞれ会員番号がついており、人気のメンバーの何人かがソロデビューして曲を発売した。

グループ内で人気が高かった会員番号4番の新田恵利「冬のオペラグラス」や会員番号8番の国生さゆり「バレンタイン・キッス」など多くのヒット曲が生まれた。

他におニャン子クラブから派生した、ユニット「うしろゆびさされ組」や「ニャンギラス」、「うしろ組ひかれ隊」もレコードデビューして数多くのヒット曲を世に送り出し、一大おニャン子ブームを巻き起こした。

現在でも、国生さゆりや渡辺満里奈、工藤静香、渡辺美奈代などが芸能活動を継続している。

メンバーの高井麻巳子は、グループのプロデューサーの秋元康と結婚している。

この曲は、会員番号5番の中島美春が、専門学校へ進学する為、おニャン子クラブを卒業するということから出来た曲。

メインボーカルは中島美春で実質はほぼソロ曲である。

この曲の名義は、中島美春&おニャン子クラブで発表された。

中島はこのレコードの印税で、新車のホンダのインテグラを購入予定だと、番組中に司会だったとんねるずの石橋貴明にバラされた。

高校を卒業して新たなステージへ進む女子高生が、一緒に学生時代を楽しく過ごしたクラスメートとの思い出を振り返りながら、”じゃあね〜”と仲間と明るく別れる、という内容の歌だった。

明るいジルバ調の曲で、昭和のダンサブルな音楽だった。

昭和の後期を代表する、それまでとは違ったプロのタレントという感じではなく、クラブ活動の一貫としてアイドルをするという新しいスタイルのアイドルだった。

「じゃあね」というタイトルは、卒業する中島美春の、最後は明るく”じゃあね”と手を振って仲間とさよならしたいという希望から付けられた。

中島は最後の出演の日、番組のラストでこの曲を歌い、涙を流しながら仲間のおニャン子達に「じゃあね」と叫んで旅立っていった。

卒業 / 尾崎豊 1985年1月21日発売

作詞作曲:尾崎豊 プロデュース:須藤晃

尾崎4枚目のシングルは、当時流行の12インチシングルで発売されヒットした

オリコン週間最高順位:20位

私の趣味嗜好から、卒業ソング特集の最後に尾崎の「卒業」を選ばせてもらった。

この曲の発売の前年83年12月に「15の夜」でデビューした尾崎豊の4枚目のシングル。

当時流行の12インチシングル(LP盤と同じ直径30cmのレコードでシングルとして扱われた、通常のシングル盤は直径17cm)での発売になった。

この曲で尾崎は一気に中学生や高校生の若者から圧倒的に支持された。

ファンは尾崎信者の様に彼の歌や、ステージからのメッセージに心を震わせていた。

当時、この曲の中に”夜の校舎 窓がラス壊してまわった〜”や”人は誰も縛られた か弱き子羊ならば 先生あなたはか弱き大人の代弁者なのか〜”などリアルで衝撃的な歌詞が詰め込まれていた。

この映像は、尾崎生前最後のライブからのもの「BIRTHツアー」ツアーの千秋楽、代々木体育館で行われたものから🎵

当時、音楽業界では”10代のカリスマ”と彗星の如く現れた尾崎を若者の代弁者として、カリスマ扱いされ音楽的にも絶賛された。

上記の過激な歌詞から影響を受けた生徒達が、夜の学校で校舎の窓ガラスを割る事件が多発して社会問題となった。

尾崎は10代のカリスマから、問題を誘発させる首謀者みたいに世間から思われるようになり、心を痛めていた。

音楽業界から天才と評価を得ていた尾崎だったがこの出来事から、ファンを自分が導かなくてはならないというプレッシャーに苦悩する様になる。

この曲は、大人と戦いながら過ごした学生時代からの卒業を”支配からの卒業”とリアルな歌詞で歌い多くの若いオーディエンスから共感を得た。

私が高校3年の時に受けたレコード会社のオーディションを尾崎も受けていて、私は一次審査で不合格だったが、尾崎は特別賞を受賞し翌年レコードデビューを果たした。

おこがましい話だが、尾崎は自分の中で天才でもありライバルでもあり理解者の一人でもある。

今でも歌を歌っている時には、尾崎を意識している。

10代の若者の大人に対する反抗の曲に聞こえるが、人は一つ一つ何かを卒業していく事で、本当の自分を見つけて出していくという人間の深い部分を歌っている作品だ。

10代でこんな曲を作れるなんて、まさに尾崎は天才だと今でも思う。

同世代の心の葛藤や苦悩を一心に抱え最後は命をかけて燃え尽きたのだろう。享年26歳。今年の4月で逝去から32年を経過する。

明るく好景気に沸いていた時代に、学校では校内暴力が問題になっていた。

明るい時代の影で若者達の苦悩は、尾崎という代弁者に導かれそして消化して行った。

生きる勇気を与え、綺麗事ではなく人間の本質に迫る卒業ソングだ。

あとがき

オイルショックや学生運動が盛んに行われ社会が混沌としていた70年代、高度成長期を終えた日本は空前のバブル景気を迎た80年代。

しかし学校では校内暴力が勃発、皆が幸せを感じていた時代に学校では大人の先生と少年少女の生徒達が激しくぶつかり合っていた。

80年代の光と影が、尾崎の卒業を聴くと垣間見れる。

1980年代は間違いなく、日本において時代のまさに変換期だった。

90年代(平成)からの空白の30年で日本は凋落した。

80年代に若者だった私達はそんな変革の時期に熱い気持ちで生きていた頃を今でも昨日のことの様に思い出す。

今後、日本がこれまでの悪しき慣習を卒業できるのはいつの日になるだろうか?

本当の自分を探していたあの日の尾崎のように、足掻いて這いつくばっても新しい日本の為に、今を卒業していかなければならないと強く思っている。

人は何歳になろうと、一つずつ何かを卒業していく事で成長していくものだとこの記事を書いていて思った。

つい力が入り長い記事になってしまいました。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。


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