見出し画像

マルと咲希 ~野良猫に出会って人生変わった話~ 第2話(小説)

-2-

 翌日。

目覚ましを切っていたにも関わらず、いつもどおりに目が覚めた。一瞬、そのまま準備を始めようとしたが、辞めたのだということを思い出し、まだベッドに横になった。

 「はあ……」

 こんなに心が穏やかなのは、いつぶりだろう。毎朝感じていた、心と体を覆うような重さはなく、カーテンの隙間から差し込む光が、爽やかで温かいものだと、初めて知ったような気がした。

 だが、太陽が真上にくる頃になると、雲が心を覆い出した。

 貯金はそれほどない。
失業手当の手続きをしても、ずっともらい続けられるわけじゃない。

 次の職場もブラックだったら?
いや、そもそも仕事が決まるのだろか?

あんな会社ですら、決まるまでに相当苦労したのに……来月はまだ給料が入るが、その次の月は、このままでは収入はゼロ……

夜になる頃には、映画を観ても漫画を読んでも集中できなくなり、あんな会社でも、給料が安くても、毎月決まった日に収入があったことに安心していた自分がいたことに気づき、トドメを刺された気がした。

 残酷な時間は流れ、すでに辞めてから一週間が過ぎていた。最近では、陽の光も心地良くなく、現実に向き合わせようとする敵ではないかと思うようになってきた。

 仕事を見つけなければならない。
行動しなければならない。
逃げている暇はない。

 自分に言葉をかけるほど、脳内では否定が繰り返され、仕事を見つけるどころか、外に出るのも、ベッドから出ることすらも億劫になり始めていた。

 「もう食材がないや、買いにいかなきゃ……」

 冷蔵庫の中身までもが、自分を責めているような気がしたが、動いてもいないのにお腹は鳴り、日が沈み始めた頃、咲希は食材を買うために、近所のスーパーに向かった。沈む夕日が、また何もせずに一日が終わることを知らせているようで、足は鉛のように重い。

 「ネコ……」

 スーパーに行く途中にある、家を囲むブロック塀の上に、一匹のネコが、目を閉じて香箱座りしていた。

 「かわいい……この家のネコかな?」

 アメリカン・ショートヘアだが、色はシルバーグレーではない。全体的に茶色で、薄い茶色と濃い茶色がシマのようになっており、鼻から顎にかけては白くなっている。利発そうな顔つきをしていて、咲希は一瞬、胸のあたりがズキンとした。

 ネコは、咲希の視線に気づき、チラっと見たが、”なんだ人間か”、といった感じで、すぐに前を向き、目を閉じた。

 「またね、ネコちゃん」

 この道は何度も通っているが、ネコを見たのは初めてだった。もっとも、今までは夜遅くだったから、気づかなかっただけかもしれないが。

 買い物が終わり、同じ道を歩いていると、さっきのネコが、今度はブロック塀の少し広くなってる場所にいて、丸くなっていた。

 思わず頬が緩み、見つめていると、ネコは目を開けて、咲希のほうを見た。そして、”またおまえか”、みたいな顔をすると、再び目を閉じたが、視線を感じるからか、また目を開いて、咲希を凝視している。

 「触りたいけど……初対面だもんね。怖いよね、きっと……私もそう、大変だよね、初対面って……」

 ブツブツと独り言を言っていると、ネコは素早く体を起こし、どこかへ行ってしまった。

 「あ……! せっかく寝てたのに、悪いことしちゃったかな……」

 その日以降、近所で何度か、そのネコを見るようになった。どうやら、飼い猫ではなく野良らしい。最初に見たときは、香箱座りをしていたが、それ以降は丸まっているときが多かったため、咲希は勝手に、『マル』と名付けて、見かけるたびに声をかけた。

 マルのほうも、何度も呼ばれているせいか、自分のことを呼んでいると思ったのか、咲希の声を聞くと、顔を向けるようになった。

 「ん……あ、もうお昼か……起きなきゃ……」

 マルと出会ってから、二週間が過ぎた。

相変わらず次への行動を起こせず、生活がすっかり昼夜逆転した咲希は、昼に起きるのが当たり前になっていた。

 「ご飯食べよう……」

 大して空腹ではないが、その時間になるとなんとなく食べる、ということを繰り返しているうちに、貯金は減り、体重は増えた。

 「何やってんだろ、私……」

 仕事のキツさ、待遇、パワハラ、セクハラ……
あらゆることに耐えかね、よりいい仕事を求めて辞めたはずなのに、そのいい仕事を見つけるための行動を、まったくしていない。それを知りながら、なんやかんやと言い訳をしてやらない自分。減っていく銀行残高[ほひ1] を見ながらも、踏み出せない自分。

 目をそらしても頭に浮かぶ事実が、心をさらに暗くして、最終的には、自分はダメな人間だから……という結論になり、そのまま寝てしまうという悪循環に陥っていた。

 でも、そもそもこんな自分になった理由は、子供の頃の環境にあると、咲希は思っていた。一人っ子だった咲希は、最初こそ可愛がられて、活発な子供だった。成長するに従って、親は何かにつけて、親戚の子供と比べるようになった。

 『あの子に比べてあんたは……』

 口癖のように、そう言われた。

そのせいで、自分は人より劣る人間という前提ができあがったらしい。いつからか、活発さは消極に変わり、すべてが中途半端になり、これといったものも身につかないまま、就職することになった。

 早く家を出たかったから、高校を卒業したら働く気だった咲希を、親は無理やり大学に……それも、とりあえず大卒になればいいという思考で行かせ、そこでもたっぷりと、コンプレックスを熟成させることになってしまった。ネガティブな思考に飲まれたときは、必ずそういった過去が引っ張り出されてくる。

 「やらなきゃ、今日こそ……」

 それでも、いつまでもネガティブの沼に足を取られているわけにもいかない。なんとか自分を奮い立たせて、転職サイトに登録し、3つの会社に応募したが、それが精一杯だった。

 書類審査すら通る自信もなく、通るために精一杯考えたとも言えないまま、現実から逃げ出すように、スーパーに向かった。

 
-3-

 『マル? マルっていうのは、俺のことか?』

 マルと呼ばれた猫は、何やら話しかけてくる人間を見ながら思った。二週間ほど前から見かけるようになった、人間の女。名前はサキというらしい。

 最初は、よく見かけるただの猫好き人間かと思ったが、どうもそうではないらしい。餌で釣るわけでもなく、言葉も通じないのに、なぜか会うたびに話しかけてくる。

 そしていつの間にか、マルと呼ぶようになった。それが自分のことを言っているのだろうことは、マルにも何となく分かった。

 『しかし、なんでマルなんだ? なんかちょっとな、ドスが効いてないっていうか、柔らかい響きがしてあれだな……』

 香箱座りで周囲に視線を動かしながら、ブツブツと考える。
幼い頃に親猫と死別したマルは、それからずっと、一匹で生きてきた。その中で、いろいろな人間も見てきた。

 すぐに触ろうとするもの。
餌で釣ろうとするもの。
暴力を振るうもの。

 いろいろなタイプがいた。

 仲間ではないが、顔見知りの野良が、餌で釣られて近づいたところ、煙の出る細い棒みたいなものを押し付けられて、火傷を負ったこともあった。誰も助けてくれない野良にとって、大きな怪我は、そのまま死に直結する。

 そういった事情から、マルは人間を信用していなかった。当然、餌をもらうこともない。だが、このサキという女は、今まで見てきた人間とは少し違う。何がしたいのか分からないが、危険なニオイはしない。

 「またね、マル」

 サキは、ひとしきり話すと、マルに手を振りながら、歩いていってしまった。あっちには、人間が集まるスーパーという場所がある。時々餌にありつける場所だ。

 『変な女だ……』

 マルは、いつの間にかサキのことが気になっている自分を無視して、いつものように丸まって、目を閉じた。


第3話に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?