見出し画像

歌謡曲から「昭和」を読む (NHK出版新書) を読んで

本名・中西礼三。作詞家、作家。1938年(昭和13年)9月2日、満州(現中国東北部)牡丹江市生まれ。「人形の家」(弘田三枝子)「まつり」(北島三郎)をはじめ多くのヒット曲を手がけ、「兄弟」「赤い月」などの小説でも高く評価される。2020年没(82歳)

作詞家のなかにし礼さんの本を図書館でかりた。歌謡曲と昭和。冒頭に「歌謡曲は死んだ」と書かれていた。「歌謡曲」=「流行歌」で「ヒットを狙って売り出された商業的な歌曲、多様なジャンルを包括する」と定義されている。よく意味が分からなかった。確かに大ヒットには時代をつかんでいる。軍歌も歌謡曲と位置づけ、戦後の「リンゴの唄 詩サトウハチロー 曲 万城目正 歌並木路子」「青い山脈 詩西条ハナ 曲服部良一 歌藤山一郎」軍歌が培ったインフラのの上に咲いたヒット曲と。


昭和初期は上記年表から戦乱、内乱の時代だったといえよう。そう反して国内の人々の娯楽は依然と存在していた。ラジオの普及、蓄音機の普及。歌謡曲が人々の心に沁みつくのは早かったと。

昭和初期の歌謡曲の代表。作曲家の中山晋平が登場。

代表曲は
「カチューシャの唄」(大正3年)

「ゴンドラの唄」(大正10年)

そして「古賀メロディ」の誕生。古賀政男だ。

私も昨年代々木上原にある古賀政男音楽博物館に行った。その時の詳細は後日別のNOTEにて記載する。
「影を慕いて」(昭和4年)

「酒は涙か溜息か」(昭和6年)

「丘を越えて」(昭和6年)

「東京ラプソディ」

中山晋平と古賀政男は昭和初期を代表する作曲家ですが、私はよりこどものころテレビで藤山一郎がテレビで歌っているのをよく見た覚えがある。だから中山晋平の上記の曲よりか古賀政男の曲がなじみ深い。暗い時代に突入していこうとするのを人々はどう聞いていたのであろうか。

昭和11年(1936年)歌 渡邊はま子
「忘れちゃいやよ」
(詩 最上洋 曲 細目義勝)
~月が鏡であったなら 恋しあなたの面影を
 夜毎うつして 見ようもの
 こんな気持ちでいる私
 ねえ 忘れちゃいやよ 忘れないでね
4月に発売して6月に発売頒布禁止となった。「恰も婦女の嬌態を眼前に見るごとき官能的唱歌」と位置付けられた。
検閲の厳しい時代に入っていく。

作者のなかにし礼は満州生まれ、8歳まで満州で過ごす。敗戦の色が濃くなってきたとき昭和20年8月11日のことをそのまま抜粋しよう。
「ソ連軍数十機が私たちの一家の住む満州牡丹江を爆撃したのは昭和20年8月11日AM10:00頃だった。庭で遊んでいた私は巨大な鷲のように翼を広げた爆撃機の胴体から鹿の糞のような黒いものが次々に落ちてくるのを見た。鹿の糞はやがてはっきりと爆弾だとわかる形を見せて尾翼をゆっくりと旋回させながら、私の頭上を通りすぎた。次の瞬間、大音響がしたかと思うと私は玄関のあたりまで吹き飛ばされた。
ソ連軍戦車隊が牡丹江郊外までに迫っていた。
本土にいる兄と新京(長春)に出張中の父を除いた母と姉、私の3人は町を出る最後の軍用列車に乗った。途中、ソ連軍の機銃掃射で大勢死んだ。死体は列車から投げ捨てられた。前の列車も同じ目にあったらしく行けども行けども線路際には捨てられた死体がゴロゴロとしていた。
(中略)
内陸のハルビンについたのは8月15日の昼前だった。
(父が亡くなり)母と姉は母国に帰れることを心から喜んだが、私は複雑な気持ちだった。満州に生まれて八年間ずっとそこに住んでいたからである。日本を知らなかったからである。」
引揚船に乗ってラジオから聞こえてくる歌、「リンゴの唄」であった。

戦後を代表する名曲であるが、なかにし礼は「母国の土を踏んでいないのに悲しい」と思った。曲調は明るいがこれから訪れる貧しさをイメージする曲だと言い放つ。

ここで戦後の混乱を描いた歌謡曲を3曲紹介する。
歌 田端義夫
「かえり船」(詩 清水みのる 曲 倉若晴生)昭和21年
波の背に背に 揺られて揺れて
月の潮路の かえり船
霞む故国よ 小島の沖じゃ
夢もわびしく よみがえる

「夢淡き東京」昭和22年
詩 ハトウハチロー 曲 古関 祐而
歌 藤山一郎
柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
誰かを待つ心 可愛いガラス窓
かすむは 春の青空か
あの屋根は
かがやく聖路加か
朝の虹も出た誰かの待つ心
淡き夢の町 東京

「星の流れに」昭和22年
詩 清水みのる 曲 利根一郎 歌 菊池章子
星のながれに身を占って
何処をねぐらの今日の宿
荒む心でいるのじゃないが
泣けて涙も涸れ果てた
~夜の女になった自分を恥じている~

私の父母も戦後の混乱期、幼少時代を生きてきた人間だ。とにかく貧しかった。食べたい食べたいといつもおなかをすかしていた。感謝して残さず食べなさいをよく言って聞かされた。今の飽食の時代に生まれてきた私の子供にそのことを言っても信じられないという感じだ。以上の3曲戦後すぐに流行した歌曲 であるが内容が凄まじい。引揚船、焼け野原、娼婦と生きていくのがやっとだったんだなとしみじみ思う。

ところでなかにし礼は満州の生まれ育ちと述べた。
満州とはいかなる土地であったか。
【満州国】満州事変により中国東北地方を占領した日本が、1932年、清朝最後の皇帝 溥儀 ふぎ (宣統帝)を執政として建国した 傀儡 かいらい 国家。 首都は新京(今の長春)。 1934年に溥儀の皇帝即位によって帝国となり、1945年、日本の第二次大戦敗北とともに消滅。

時代は新天地、略奪地へ多くの日本人が移った。なかにしもその一人である。
「人生の並木道」
(詩 佐藤惣之助 曲 古賀政男 歌 ディックミネ)
泣くな妹よ 妹よ泣くな
泣けば幼い二人して
故郷を捨てた甲斐がない
遠いさびしい 日暮れの道で
泣いて叱った兄さんの
涙の声を忘れたか

国を信じて他国に移住した個が、それとは裏腹な前に身もだえしている曲。
なかにしはこの曲を「満州での歌」と位置付けている。
「身もだえからうまれる【哀しみ】に感応する心の在り方こそが日本人の国民的な情緒」と。異国での労苦に語り掛けたこの曲になかにしの情緒がすこぶる感応したと思う。

そして「もはや戦後ではない」との言葉通り昭和20年後半~30年代前半の特需景気。時代は二人の昭和を代表するスターを誕生させる。
美空ひばりと石原裕次郎である。
美空ひばりは私の家内の母が大ファン。石原裕次郎は私の叔母が大ファン。
いつも歌を聴いていた。
この時期、歌謡曲界はレコード会社の専属性によるマンネリ化で「新しさやエネルギー」が感じられないらしい。
そこにこの2人の「昭和のスター」が出現した。
私の好きな曲をそれぞれ1曲づつ挙げる。

美空ひばり
「東京キッド」(昭和25年)
(詩 藤浦洸 曲 万城目正)
歌も楽しや 東京キッド


石原裕次郎(昭和31年)
(詩 石原慎太郎 曲 佐藤勝 )
夏の陽を浴びて 潮風に揺れる花々よ
草陰に結び 熟れてゆく赤い実よ
夢は遠く白い帆に乗せて
消えてゆく消えてゆく
水のかなたに
~この曲詩がとてもいい。ハワイアン風の曲もいい。

https://youtu.be/IzoM1znmy0w?si=V671LtwFBjLHqYHu

そして時代はグループサウンズ、フォーク時代を経て壮観の昭和40年代に入る。そうようやく私が誕生する。あらゆる作詞家、作曲家がレコード会社に束縛されない自由なフリー制度によってヒット曲量産体制になった。この頃なかにし礼も下記に書いた。
「知りすぎたのね」(昭和43年)
(詩、曲ともになかにし礼 歌 ロスインディオス)

「愛のさざなみ」(昭和43年)
(曲 浜口庫之助 歌 島倉千代子)

「君は心の妻だから」(昭和44年)
(曲 鶴岡雅義 歌 鶴岡雅義と東京ロマンチカ)

「人形の家」(昭和44年)
(曲 川口真 歌 弘田三枝子)

「夜と朝のあいだに」(昭和44年)
(曲 村井邦彦 歌 ピーター)

「今日でお別れ」(昭和44年)
(曲 宇井あきら 歌 菅原洋一)

「手紙」(昭和45年)
(曲 川口真 歌 由紀さおり)

「グッド・バイ・ラブ」(昭和49年)
(曲 平尾昌晃 歌 アンルイス)

やっと子供の頃テレビから流れてきた歌の登場だ。親父おふくろと一緒にテレビを見て聴いた歌の玉手箱、壮観である。
話はそれるが菅原洋一は私の住む町加古川の出身である。

そして昭和50年代。私が物心ついて、歌謡曲ばかり聞いていた。テレビからラジオと。ちょうどカセットレコーダーがでてきて録音しまくった。
この本に書かれていた豪華なラインナップは以下の通り。
「終着駅」(昭和46年)
(詩 千家和也 曲 浜圭介 歌 奥村チヨ)

「瀬戸の花嫁」(昭和47年)
(詩 山上路夫 曲 平尾昌晃 歌 小柳ルミ子)

「喝采」(昭和47年)
(詩 吉田旺 曲 中村泰士 歌 ちあきなおみ)

「ジョニィへの伝言」「五番街のマリーへ」(昭和48年)
(詩 阿久悠 曲 都倉俊一 歌 ペトロ&ガブリシャス)

「危険なふたり」(昭和48年)
(詩 安井かずみ 曲 中村泰士 歌 沢田研二)

「心のこり」(昭和50年)
(詩 なかにし礼 曲 中村泰士 歌 細川たかし)

「北の国から」(昭和50年)
(詩 阿久悠 曲 小林亜星 歌 都はるみ)

「春一番」(昭和51年)
(詩曲ともに 穂口雄右 歌 キャンディーズ)

「津軽海峡・冬景色」(昭和52年)
(詩 阿久悠 曲 三木たかし 歌 石川さゆり)

テレビをつけると歌手が歌うこと以外の芸で人気を取っていた。歌そのものの力がなくなってきた時代に突入する。なかにし礼は「私はスターたちが自分の総合的な音楽世界を確立するために迎合している、テレビのなかの世界やそこに盛り込まれている価値観に嫌悪感を覚えた。それらは、親しみやすさであり、安心感であり、遊戯性であり、幼稚性だった。」
そんな世界にどっぷりつかっている歌手にいい歌が歌えるはずがない。
そこでなかにしは放送禁止覚悟でこの曲を書く。

この歌歌ってたら親に無茶苦茶叱られた。
「時には娼婦のように 淫らな女になりな 真っ赤な口紅つけて
黒い靴下はいて 大きく脚をひろげて 片眼をつぶってみせな
人差し指で手招き 私を誘っておくれ」
すごい歌詞であるが、歌に力があれば売れると証明した。
感想はこれで最後にしたい。私の青春時代1980年代は歌そのものよりアイドル性ばっかりに目が行くという時代に。ちょうど時代もバブル狂乱の時代に入っていく。(終わり)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?