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大友家随一の茶人 臼杵 鎮続(うすき しげつぐ)

生誕不明。死没1578年(天正6年)耳川合戦での討ち死に。
臼杵氏の一族で豊後の国大友氏の庶流戸次氏の流れをくみ、大友氏の一族。父親は臼杵長景(うすき ながかげ)。兄に大友家三老の臼杵鑑続(うすきあきつぐ)、鑑速(あきはや)がいる。紹冊(しょうさく)の号で知られている。

兄、鑑続の死後、柑士岳城(こうしだけじょう)城代として筑前国に入り志摩郡の国人を統率。博多の御笠川(みかさがわ)改修。房州堀(ぼうしゅうぼり)の開削で水運利用や博多防衛の利用に貢献した。ちなみに開削は兄の頃からだったともいわれており、水運の工事を兄弟で完成させたとおもわれます。後に黒田長政(くろだながまさ)が入城したときに堀を改修。防衛としても交通としても当時の水運事業は重要だったのでしょう。

1568年 毛利に通じた高橋鑑種(たかはし あきたね)の守る宝満城(ほうまんじょう)を攻撃。すると原田隆種(はらだたかたね)に柑士岳城を奪われる。高橋鑑種、原田隆種は大友きっての武将ですのでしかたないですが、鎮続は激戦のすえに柑士岳城奪還に成功している。しかし、追撃戦で逆に原田隆種の反撃に遭い敗走。このことを大友宗麟に「短慮」とお叱りの書状をうけている。このため柑士岳城城代を弟の鎮氏(しげうじ)に任せ豊後に帰る。
が、一説には志摩郡泊家の御家騒動の責任を取らされたためともいう。
これ以降、原田隆種との戦いは続き、鎮氏は自刃している。ちなみにこの争いを正確に記録した文献はない。臼杵鎮氏が「傲慢にして欲深。」と評された文献があり、敗者を評価しているとはいえ、地元の人々には良い人物には見えていなかった事は確かだと考えられる。
この後、鎮続が城代に再任した。
1578年 兄、鑑速(あきはや)の子、臼杵統景(うすき むねかげ)の後見人となり、耳川合戦に参陣。島津軍の釣り野伏せ戦法にはまり隊は壊滅。統景ともども討ち死にした。
家督は鎮順(しげつぐ)の子、鎮尚(しげなお)が継いだ。
また、茶の達人としての評価も高く、大友宗麟から「佐伯肩衝」(さえきかたつき)を承っている。

この人物の評価は微妙です。茶人で短慮。しかし、水運工事をおこなうところを考えれば内政重視的な人物だったと思われます。本家の後見人であれば統景をなんとしても逃がさねばならない立場の人物だったのですがね。そこで「短慮」と叱られた言葉が思い出せていれば少しは変わったのかもしれません。
臼杵鎮続でした。





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