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大内義長(おおうち よしなが)

生誕1532年。没年1557年。
大友義鑑(おおとも よしあき)の子。大友義鎮(おおとも よししげ)の弟。幼名、塩乙丸(しおおつまる)。元服の際には将軍 足利義晴より偏諱を与えられ、大友 晴英(おおとも はるひで)と名乗る。

父の義鑑の妻が大内義隆(おおうち よしたか)の姉妹であったことから大内義隆の嫡子が亡くなって(1543年)すぐに猶子(ゆうし)として大内氏に出されている(1544年)。しかし、1545年に義隆に実子、義尊(よしたか)が誕生。猶子関係を解消され豊後に帰国した。晴英この時11歳、この出来事が大内家当主への憧れのようなものが生まれたのかもしれない。

1551年大内家、家臣、陶隆房(すえ たかふさ)が大内義隆に謀反を企て大内家の新当主にする提案を豊後の大友義鎮(おおとも よししげ)にもちかける。これに大友義鎮は晴英が傀儡(かいらい)として擁立されるだけでいずれは廃位されると反対するが晴英自身が大内家の当主になることを望み義鎮は渋々これを認めた。

実際には大友義鎮にしてみれば前年「二階崩れの変」で家督を継いだばかりでまだまだ当主として危うい状態であり。この申し出はかなりありがたかったはずである。北部九州の侵攻のきっかけを作ることもできたし何より弟を担いで家臣が分裂などとなる可能性を排除できた。そう考えると大内の後継者に関してある程度の発言権を持った義鎮の策ともとれなくはない。おそらくは家臣の吉岡長増(よしおか ながます)あたりが考えたのかもしれない。

1552年 陶隆房の策により大内家32代当主につく。この時に陶隆房は諱を授かり陶晴賢(すえ はるたか)と改名した。改名からもわかるように名前の上の一文字をいただいており陶晴賢の傀儡政権の誕生でもあった。

1553年 将軍 足利義藤(あしかが よしふじ)より偏諱を受け大内 義長と改名した。官位も叙任されており大内家当主としての立場を強調したものかと思われる。

1554年吉見氏討伐に出陣(三本松城の戦い)。

1555年厳島の戦いで毛利元就(もうり もとなり)に敗れ、陶晴賢が戦死する。

陶晴賢の戦死は大内義長にとって最大の後ろ盾を失い。家臣団が徐々に崩壊していく形となった。

1556年 明に勘合貿易の再開を求めるが断られる。

貿易という手段で資金を増加させたい大内義長を明は正式な大内家の当主と認めず。義長にとって八方塞がりの状態になっていた。これにより実兄の大友義鎮に援軍を頼むようになる。しかし、この時、大友義鎮は毛利元就と密約を交わしていたとされており、大内家への援軍は出さなかった。

1557年 毛利軍の山口侵攻により敗退。重臣の内藤隆世(ないとう たかよ)の長門 且山城(かつやまじょう)へ敗走。毛利軍に囲まれ、内藤隆世のは義長の助命を条件に開城し自刃した。

義長は長門長福院に入ったがさらに毛利軍に囲まれ自刃を迫られて、陶鶴寿丸(すえ かくじゅまる)らと共に自害した。

享年26歳。

辞世の句「誘うとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」

信長の野望では著しく能力が低く4流武将です。大友義鎮の弟にしてはいまいち能力が伴わない。兄が義鎮ならもう少ししっかりした人物になりそうなのですが・・・。

義長は幼いときに鉄砲で怪我をしたときにポルトガル船の船医に傷を治してもらったとか。大友義鎮、義長兄弟の母親が大内氏の出身となっているのですがすぐ離婚して吉見氏に嫁いだとか。あまり人物を評価したような記述が少なくなんだかなって感じです。ただ大内家の家督をと打診があったときに時勢を詠まず、当主になるあたりはお気楽な人物だったのかと思います。大内家当主にならなければ大友家のナンバー2になれたかもしれない人物。

大内義長でした。

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