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要地(かなめち) 日田氏

日田氏は大友宗麟(おおとも そうりん)の時代には、大蔵一族の堤・財津・高瀬・坂本・羽野・石松の六氏に命じて、郡政として統治させていた。
戦国時代まえには大蔵氏が1071年ぐらいから1432年まで300年以上も日田の支配者で。1432年の家督相続争いで没落。
大友氏がそこに目をつけて郡代として入る。応仁の乱以降は大友家の争いに巻き込まれ日田大友氏も没落。
再度、大友親明(おおとも ちかあき)の子親賢(ちかたか)が入って日田氏を継いだが、親賢のあとは親将(ちかまさ)が継いだ。ところが親将は悪政を行ったため日田郡士の反発を招き、ついには天文十七年(1548年)、大友義鑑(おおとも よしあき)の謀計により自刃し郡司職は断絶した。
日田氏が没落したことで、その後の日田郡は大蔵一族の堤・財津・高瀬・坂本・羽野・石松の六氏に命じて、郡政をしき統治させた。これを郡老と称し、のちに目代二名(佐藤、瀬戸口)を追加して「八奉行」と呼ばれた。
二回崩れの変以降は大友宗麟に従い。毛利との戦いなどに従軍している。
しかし、秋月氏、英彦山との争いもあり、日田氏は戦従軍として絶え間が無い。耳川合戦以降は大友につくものと島津、龍造寺につくものとまちまちになり混迷の土地になった。最終的に大友方の財津氏が台頭し謀反を起こした田北氏を討ち取ったり活躍をしている。大友義統の時代には志賀親次が入り統治する。
日田大友氏の末裔、親永(ちかなが)の子が財津氏に養育され、成人してのち日田六郎を名乗って細川氏に仕えたと伝えられている。


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