おりあそ氏の論考を読んで思ったこと。映画「ラブライブ!」雑感

 http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html

 おりあそ氏の例の論考を読んでちょっと思ったことがあったので書いてみる。

 氏が問題にしている中で個人的に最も気になるのが「脚本の瑕疵」についてである。僕はこれを瑕疵だとは思わない。

 氏は映画『ラブライブ!』でテレビアニメでは殆ど触れられなかった「スクールアイドル」が急に浮上している点を主に問題としている。映画のストーリーも同様に前半と後半が繋がっておらず《行き当たりばったりで、物語の流れを無視したストーリー》と評す。続いて《後半のストーリーから逆算すれば、前半では「スクールアイドル」の問題が提示されていたり、μ's活動終了への伏線が描かれていたりしなければならないはず》で《とにかくこの映画の脚本はいたるところが継ぎ接ぎだらけの雑なものであり、一貫したテーマがないので物語性を感じられない》という。

 おりあそ氏は、おそらく外的な目標(「廃校の阻止」や「ラブライブ!優勝」)がないことを問題としている。その点をもって脚本に瑕疵があると言いたいのだろう。しかしながら「映画ラブライブ!」が主題としたのはそうではなく「μ'sのアイデンティティ」である。

 「μ's」のアイデンティティを巡るストーリーとして映画を見ると、脚本に瑕疵があるとは思えない。むしろ、そうあるべくして出来上がったとさえ言える。
 
 映画のストーリーは、μ'sが「世界の中心(ニューヨークのようだが、映画の中ではニューヨークともアメリカとも言っていないのでこのように表記する)」に行きライブをする。そして帰国したところ人気が出てしまい、今までは自分たちのだけのものだった「μ's」のスクールアイドルとしてのアイデンティティに悩むというもの。

 アイデンティティの問題は映画の途中に浮上する。映画の始まりからは提示されていない。提示しようがないというか、それを提示するために「世界の中心」に行ったのであるとも言える。
 μ'sは、テレビアニメ26話で、自分たちの世界をひたすら生きてきている。外部など無いと言っていいと思えるほどである。自分たちの学校を守るためスクールアイドルを結成し、自分たちのためにラブライブ!に出場し、優勝し解散したのである。映画では、そんなμ'sが、とりわけ穂乃果が外部を発見する、という展開になっている。

 帰国後空港でファンに囲まれて初めて穂乃果はスクールアイドルであるμ'sへの外部からの視線を発見する。この役目は穂乃果以外には担えない。理由は穂乃果が一番周りが見えていないからである。にこや花陽は自身がスクールアイドルのファンであるし、ことりはメイドカフェ店員である。希や絵里、真姫、海未にしても自分たちがどう見られているかについて、穂乃果よりは意識しているだろう。凛は怪しいが。いや、海未もか。海未もちょっと怪しいな。

 世界の中心での中継によって帰国後急にファンに詰め寄られることで、μ'sのアイデンティティは変化する。それまで「私たちのμ's」だったものが「みんなのμ's」になるわけである。そして「次のライブはいつ?」とμ'sの活動を求められる。そこで、自分たちとしては終わらせている「私たちのμ's」を「みんなのμ's」として改めて終わらせる必要が出てくるのである。

 そう、この映画は「私たちのμ's」を「みんなのμ's」としてμ'sが、とりわけ代表として穂乃果が受けとめる物語である。なので、脚本に瑕疵があるわけではなく、映画ラブライブに物語性が欠如しているわけではないとは言っておきたい。

 ただ、氏の言いたいことはわかる。というよりも一貫した外的なテーマにつらぬかれた作品が好きな人が多いんだろうな、と思ったことがある。以前知人が「超時空要塞マクロス」を見た感想で「戦争を終えてからの展開が蛇足」と言ったことを思い出した。それと似ているような気がする。あるいは「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ最終2話が、シンジのアイデンティティ問題に収斂したことが気に入らない人がいるかもしれない。それと似ているような気がする。

 なので、氏の指摘は脚本の瑕疵ではなく、描かれるべきテーマの好みの問題であると言い換えてしまいたい。その上で描くべきテーマの選択にミスがあるというのなら、まあそれはそれでひとつの感想として正しいとは思う。

 ところで、作品の内面から見つめた場合、このような描き方は極めて妥当であるということができる、、、と思う。今までの記述の換言になるが「スクールアイドル」が主題化するのは、そもそも穂乃果の意識の中で帰国後初めてなのだから、それを唐突というのは、なんていうか、穂乃果がそうだったんだからしょうがなくない?って感じ(このあたりは僕の作品鑑賞の態度の問題でもあるので深堀りするのは避ける。詳しくは文末に記載するので、興味のある方はご一読の程をよろしくお願いします(※1))。

 さて、氏が問題にしている点がもう一つ。キャラクター描写のお粗末さ、である。これは同感である。花陽が米キチなのはひどい描写だし、やり過ぎだと思った。あと海未ちゃんが臆病者にもどっていたのも、アニメ以前のキャラ設定だなーとぼんやり感動していたのだが、それはともかく描き方がひどいなと思った。ちょっと雑だなと。

 ただ、穂乃果の決定に従うだけ、というのはちょっと違うんじゃないのと思った。あと、ことりの同調圧力で一緒くたにされるというのも、同調圧力じゃなくて、ほんとうにみんな同じ思いだったんじゃないの? と思った(ここは僕があまり気にならなかったというだけで見なおしたら、おりあそ氏の指摘は妥当だと思うかもしれない)。

 あと、氏の論考の中で僕が最後に気にかかるのが穂乃果が出会う女性シンガーに対する《キーパーソンであるかのように登場しておきながら本筋にはちっとも絡まないというこのキャラクター》という記述である。これは妥当ではない。前述したように映画ラブライブ!で描かれた《本筋》はμ'sのアイデンティティだからである。女性シンガーはμ'sのアイデンティティの危機にちょっぴりアドバイスをして去っていくという役である。

 とまあ、わかったようなことを書いたものの、個人的に女性シンガーの描き方は不満がある。端的にいってよくわからないのである。(僕が暗喩を読むセンスが壊滅的にないせいだと思うのだが)μ'sメンバーの前に姿を現さなかったり、穂乃果宅に入るのを拒んだり、マイクを穂乃果に渡しっぱなしにしたりといった描写が何を意図するのかさっぱりわからない。

 それから、穂乃果の水たまりを跳ぶシーンもいらないと思う。これはまったく氏に同意する。このような内面描写で穂乃果の立ち止まりや前進を現しているのはわかるが、効果的ではないと思ったし、テレビシリーズでこのような表現を採用していなかったのに唐突であると思った(もちろん、個人的にこの手法が好きではないことが主な理由なので、これは冷静な意見ではないんですが)。

 おりあそ氏の論考を読んでの感想は以上である。論点が拡散してしまい揚げ足を取るような文章になってしまったかもしれない。

 また、氏の論考に対してViolaの錬金術師氏が反論を寄せていて、こちらの文章にも頷くところは多かった。ただ、ラブライブ!に対する思いが強すぎて全肯定しすぎじゃないのかと思う点もいくつかあった。しかし氏の見方は大変参考になる。熱意と愛にもあふれているし。

http://hiyamasovieko.hatenablog.jp/entry/2015/06/24/004202

http://hiyamasovieko.hatenablog.jp/entry/2015/06/29/201133

 以下は映画を見ての個人的な雑感。

・映画ラブライブ!は名作であったと言いたい。気になる点は、上記や、後述する通りいくつかあるが、それを全てチャラにするほどの感動があった。それはμ'sを終わらせたことである。これは現実のμ's(声優9人)を巡る全てのことや、サンシャインの登場、更にそもそも映画のために2期最終話があのようなものになってしまったことなどが全て加味されて僕はいたく感動した。ちゃんと終わったんだなって思った。もうそれだけで全ておっけーです。

・「SUNNY DAY SONG」がめっちゃめちゃよかったのと「SUNNY DAY SONG」のダンスが、だれでも参加可能な簡単な振り付けであることと「SUNNY DAY SONG」がなんというか、僕の思うスクールアイドルっぽい楽曲だったことが、ほんとうによかった。あれ、6thライブで踊りたいんですよね。

・ことりママが「みんな、μ'sには続けてほしいと思ってる」って言うわけねーだろ!!!!って思った。テメーはストーリーを駆動させるための駒かよ!!!!って思った。μ'sの自主性を尊重してやる母鳥になってくれよ!!って思った。

・穂乃果が「限られた時間の中で、せいいっぱい輝こうとする、スクールアイドルが好き」って何度か言うけど、名言を言いたいだけのバカっぽくてよかった。穂乃果だしなって思った(他のキャラクターが何度も言ってたら「名言言わせたいだけかよ、寒い脚本だな」って思ったと思う)。

・A-RISEがアホみたいなリムジンに乗っているところ。めっちゃよかった。Shocking Partyを流してるところがアホすぎる。

・ドーム大会は、蛇足ではないか。というか、ドーム大会を巡るあれこれとμ's解散の折り合いが付けられなくて、最後に差し込んだなって思った。でも、ドーム大会ってのは6thライブが東京ドームか西武ドームで行われることへの布石なんでしょ? だから全然おっけーです(え?)。

 というわけでさんぱわー最高でした。本当にいい曲でした。めっちゃ頭の悪い文章になってしまいましたが、そんな感じです。

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※1
僕は、アニメに対しても、実写に対しても「そういう世界があり、僕はそれをカメラで写したものを見ている」という態度で作品鑑賞をしている。誰かが作品を作ったということを見ている間意識させることのない程没入させる作品を高く評価する。そして、没入してしまえば、どんなことがあっても「その世界で実際に起ったことなんのだから」疑問を持たないのである。逆に、没入できない、没入から醒めさせるような描写があったりすると評価はグンと低くなる。なので製作者の意図が垣間見えるものがあまり好きではない。「馬鹿な!! このキャラはそんなこと言わねーだろ! 言わせるんじゃねえ!!」みたいなことである。ところで、製作者に意図があったかどうかはあまり関係がなく、僕がそう感じるか否か(主観!)が評価軸なので、批評に向いていないかもしれない。「ラブライブ!」にはいくつか製作者の意図が垣間見えるところがあったものの、没入を醒ますほどではなかったという評価です。まあでも「ぱにぽにだっしゅ」みたいなパロディ主体の作品はその限りではないんですけど。

また、僕の作品を評価するポイントでひとつ重要視しているのが、リアリティ(もっともらしさ)である。これは、現実みたいである、という意味ではなく、その作品世界の中でリアリティがあればいいと思っている(だから例えば「空想科学読本」の如き、作品世界の出来事を現実の尺度で測るみたいなものは「お遊び」だとしても大変不愉快である。「リアル」と「リアリティ」は違うのである。こちらも何にリアリティを感じるかは僕の主観なので敷衍や一般化できないものである。やっぱり批評に向いていないのかもしれない。

あと、構成が上手な作品というものにもあまり興味が無い。製作者の意図を感じるというところにも関連するのだが、きれいにまとまった作品であるかどうかは、好きでも嫌いでもなく、興味が無い。例えば「ラブライブ!」1期が「廃校の危機」からスタートせず、穂乃果が入学したところから切り取られていたとしても、絵里や希が生徒会に入ったところから描かれていたとしてもそれはそれでいいと思う。

なんというか、カメラで切り取る場面が見事であればいいのである。スケッチが上手いというか。そういったものの貼りあわせでいいと思っている。

この文章はそんな評価軸をもった人間によって書かれております。

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