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歴史篇

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記事一覧

歴史篇4『三崎書房時代』

三崎書房に入って、すぐに「エロチカ」編集部に配属――というのが甘い考えだったいうのは、「淑女篇2 北国のお尻」で書いた。  まずは本の流通を知りなさい、というので営業に配属され、毎日が倉庫の整理や取り次ぎへの納本、時々書店周りという感じで過ぎていく。しばらくすると、このまま営業部で飼い殺しにされるのではないか? そう言えば面接の時、車の運転ができるか、しつこく聞かれたけど編集には車は必要ではないのにな、と疑心暗鬼さえ湧いてきた。  一番こたえたのは、収入だった。なにしろ大学時

歴史篇3『大学時代②三人の処女3』

21歳の正月、私は久しぶりに帰省した。年3か月ほど勤めている「タブラオ・ロサ」では相変わらず信任を得て、休みも取りにくい状態だった。大学は、もう安保条約も自動継続になっているのに、まだバリストを続けていた。  もうすぐ22歳になるのに、このままでいいのか自信がなかった。だから丁度開かれた中学の同窓会に出席してみた。だがそこには、私のようにハグレている者はいなかった。みんなそれなりに進路を見出し、歩き始めているようだった。  会もお開きになる頃、里恵が寄ってきて話がある、と言う

歴史篇3『大学時代②三人の処女2』

二人目の処女との遭遇は、20歳の春休みのことだった。  その頃には真弓が超進歩的両親の同意を得て、同じアパートの二階に越してきたので、ほとんど同棲状態だった。だが、まだ本当の挿入セックスはおあずけのままで、縛ってのヘビーペッティングをその気になった時に自由に楽しんでいた。  だから春休みも東京にいたかったのだが、私には慢性盲腸炎の持病があった。時々痛むのを薬で散らしていたのだが、いい機会だから手術しなさいと、家の近所の知り合いの病院に予約されてしまった。二つも大学に入れてもら

歴史篇3『大学時代② 三人の処女1』

 両親とのすったもんだの末、和光大学の入試を受けることになった。選んだ学部は「人間関係学科」だ。梅根学長との話し合いの時、人間をこれまでの学科にとらわれず、複合的に研究する新しい学問だ、と聞いてピンときたからだった。  そのピンときた先には、隣のクラスに真弓(淑女録2 「初愛の人 」参照 )がいた。そして真弓によってSМの門戸が開かれた。もしあの時、というのは不毛な議論だとは思うが、その後も私の人生は他の方向に向かおうとしても不思議にSМへと引き寄せられていくのだ。この専

歴史篇3  『大学時代①泡の中で』

大学生活は失意の中からはじまった。と言うのも、私は小学校の時から弁護士志望で、早熟にも5年生から六法全書を買ってきて、勉強や読書のかたわら読んでいた。  しかし、高校時代にはベトナム反戦の嵐が吹きすさび、私は共産党の下部組織の「民主青年同盟(略して民青)」に入会して活動していた。そのせいで若さからくる自然の流れで反米思想に偏りすぎ、英語の授業に身が入らなくなってしまった。  結果として、有名私大の法科は軒並み落ち、滑り止めとしていた専修大法科が試験料を払った後に、他の入試と日

歴史篇2  『幼少年期』

自分の過去をひるがえっても、私にはなぜこんなにも数奇な運命に弄ばれて、今へと たどり着くことになったのかわからない。  東京から車で2時間ほどの地方都市に、呉服屋の長男として生まれた私は平凡な人生を歩いていくはずだった。  小学生の頃は体が弱く、本を読んで過ごすことが多かった。童話、神話、偉人伝、推理小説と片っ端から読み漁ったものだ。おかげで国語、社会は抜きんでていたが、算数とか理科は惨めなものだった。それを心配して両親は、国立大学の理工科の学生を家庭教師に雇った。  それが

歴史篇1  『どうして髭と呼ばれるようになったのか?』

それは当然、髭をはやしていたからだった。 私が髭をはやしたのは、29歳の時(1978年)、竹書房で「近代麻雀臨増(後に「近代麻雀オリジナル」と改題して今に至る)の編集長になった時だ。  当時の私は171センチ・58キロ。白面の美青年(?)と言ったところで、百戦練磨の麻雀プロや漫画家、原作者とわたりあうにはなんとも押し出しに欠けていた。  そこで髭をはやしてみたしだい。  その前にも、24歳で編集長になったことはあった。三崎書房、歳月社での「幻想と怪奇」という雑誌だったが、その