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頭の中に思い浮かんだことをそのまま文章にするほうが楽しくてラクチンなのですがなるべく想像でなく起きた出来事を忠実に並べてみたら面倒なほどに長く甘ったれの話になりましたすんませんっした!

 今の10代の子たちが生まれる前に10代だった私は登校拒否をしていた高校生でした。それも高校3年生という大事な時期です。あの頃は今よりずっと登校拒否に対しては世の中は理解も何もなく「語られてはならない隠し事」として忌み嫌われ呪われ隔離されるくらいの勢いのものだったと自分勝手に感じていました。

 私が中学生だった頃、真面目で何でもやってしまう、よく言えば優等生、悪く言えば先生のいいなりな子供でして、職員室に呼び出されてクラスの雑用を申し付けられる子でした。これは親の教育の賜物?で「大人の言うことは絶対、反抗してはならない口答えはいけない」っていうまるで操り人形のような子でした。
 そんなエセ優等生風でしたので何でもできるわけではなくて運動神経は皆無でした。当時は「運動できる子が人気者」「クラスの発言権はスポーツ部の子」という雰囲気が当たり前でした(今もそうなのかな?)。その子たちからすれば先生のご機嫌をとるやつだと思われていたと思います。私も特に言い返すこともできなくて笑ってるだけの子だったと思います。

 同じ学年で同じクラスになった子で近所に住んでいた女子がいて、その子は今でも名前をフルネームで覚えていますが、本当に性格が苦手で、その場にいない人の陰口や告げ口をする子でした。私のことも仲間と嘲笑しているのを知っていましたがそれ以上に嫌われるといじめの対象になるだろうなと思い、頼まれごともなんでも言うことを聞いてしまっていました。
 
 社会科の授業でクラスの班対抗で都道府県クイズというのがあって、元々百科事典を読むのが好きな私は事前予告されている次回の出題の都道府県の名物や地理や歴史を調べてレポート用紙にまとめておいて、クイズが出たときに自分のいる班が優勝するために準備をしていました。もちろん優勝することができていました。それに目をつけられたある日の夕方、その近所の彼女から電話があって「調べた内容教えて」と言われたのです。今だったら「うるせえ、黙ってろ顔長巨人女!お前みんなの陰口言ってるの学年中が知ってるぞ!」ぐらい言い返せる大人になったのですが、当時の私は嫌われたくないし悪口言われたくないと思って調べ上げたレポートを渡してしまったのです。もちろん次の授業の時に同じ班の子たちからは「なんで調べてこないんだ」と嘆かれてしまいましたし、案の定クイズ本番はその彼女の班が優
勝しました。

その次の授業からなぜかクイズ大会がなくなりましたけどね。
いま思えば社会科のT先生は気づいてたのかなあ。

 中学2年の時、同じクラスに仲のいい子が一人もいませんでした。こんな私でも多少は学年に友達がいたのですがその時は同じクラスにならなくて。あの頃はクラス分けで一番大事なのは仲良くなれる子や友達がいることでした。仲が良いというより「一緒にいられる子」でした。仲間外れにならないことが学校生活を進めるのには重大でした。でも私なりに友達を作ろうとしていた記憶がありますが、そのクラスは今でいうキラキラ女子の巣窟だったようで、キラキラでない私は出鼻をくじかれて、5月に風邪をひいて1週間休んだら登校時にはもう誰とも一緒にいられませんでした。完全に部外者です。どうもあの近所の顔長巨人とキラキラ女子たちが中心になって「ハブ」にしていたようで、結局クラスメイトの誰とも口をきかない毎日でした。それからは私という存在も消されていたような気がします。休み時間は教室にいないで図書室に行ったり、ほかのクラスにいる友達に会いに行ったり。たぶんそこは恵まれてたのかもしれませんね。でも同じクラスにいないと学生なんてクラス単位で活動するので必ずひとりぼっちになってしまうんです。たまにクラスの気のいいヤンキーの女の子が声をかけてくれたりしてましたがさすがにいつもということもなくて、クラスに居場所がない状態でした。今でも覚えているのですが担任の体育の女教師が「もっと心を開いて積極的に仲間に入ってくれたらいいんだけど」と朝礼だか終礼だかで誰のことか名前は伏せて言ったことがあって、当然そんな子は私だけでしたので、「あ、いじめるほうが悪いんじゃないんだ」と思った記憶があります。絶対忘れませんよね、ああいう大人の言葉って。私の意見も聞きもしないで一方的な相手の話だけ信じて全部私の責任にするんだなと。誰も頼れない。親にも言えない。一年間耐えるしかない。何もないふりをしながら家でも学校でもいい子にしている。そんな一年をやりすごしました。長い長い一年でした。そうやって心の中の澱はどんどんと溜まって嵩を増していきました。

 中学3年ではめでたく仲のいい子と同じクラスになれて開放感がありました。やっと「普通」に過ごせると。それでも友達に対する不信感ばかりで信頼感はほとんどありませんでした。いついなくなってもいい、早く卒業したい、この中学から抜け出して誰も知らない場所で過ごしたい、それしかありませんでした。記憶もあまりありません。

 高校は学区外の公立高校へ進学しました。同じ中学からも何人か進学していましたが、クラスが12クラスもあったので同じになることはほとんどありませんでした。たまたま同じクラスになった中学校からの仲の良い友達もいてまずまずのスタートでした。元々何かしら委員や係やらを任せられていたのでおとなしくしていても顔は知られてしまうタイプだったのですが、高校に入って髪を刈り上げたり音楽を聴きまくって違う方向で目立っていました。洋楽や打ち込み系が好きだったかな。とにかくお嬢様タイプの多い学年には合わない子でした。そうです、高校デビューというやつをやってしまったのです(笑)

 高校2年は女子だけのクラスで共学なのに女子高の気分が味わえました。本当に楽しいクラスでした。自分たちが一番可愛いよねと言っていたキラキラ系女子グループに叛旗を翻した他の人たちが、何かと中心になりたがるキラキラたちにクラスを牛耳られないように抵抗するというプチ内戦もありましたが、最終的には仲良くお気楽に楽しい毎日を過ごしました。授業中に雷が校舎の近くに落ちると男女のクラスからは女子のきゃあっっていう悲鳴が聞こえるんですけど、私のいる女子クラスから一拍おいて大爆笑がおきるんですよ。そんな気兼ねのない毎日だったので何も不安なんてなかったんですよね、私もまとめ役の手伝いをしたりしていて調子に乗ってたわけでもなく普通の学生を過ごしていたんだと思います。

 さて、高校3年です。なんとなく流れ的に登校拒否しそうもなさそうな流れですが。3年のクラス替えは理科の選択科目で決められていました。私も2年の終わりに生物を選択していました。ところが新しいクラスは知り合いが誰もいない、化学教師が担任のクラスでした。誰も同じクラスに知り合いがいないのでまた一から新しく仲良くなる人を探すしかないのです。確か男子に1年の時の同じクラスの子がいたりしたのですが、まだ男子と一緒にいるだけで噂するような時代の名残りがあったのです。そして、あの中学2年の時のいじめをしてきたキラキラ女子が一人同じ学校に進学していて1,2年と運よく同じクラスにならなかったのですが、ここにきて同じになってしまったんですよね。いま思うともっと他の人と仲良くなる努力をしたらよかったんじゃないかなとか思うのですが、本当にあの嘘だらけ?のキラキラ顔を見るだけでダメでした。その子の顔をみると中学2年の時にクラス中から無視をされていたことが頭に蘇ってきてしまうのです。恐怖心しかないのです。それから学校に行くのがつらくなりました。一度休むと次に学校へ行くのがどんどん嫌になる、母の顔をみると行かなきゃと思うのに足が向かわない。途中で引き返してしまうのです。学校の側まで行って引き返しというのを繰り返し、そのうち着替えを通学かばんに入れて家を出るようになりました。行く当てもなくフラフラとさまよう毎日でした。まだ今のように不登校に理解なんて全くなくて制服で昼間歩いていたら目立っていましたから、駅についたらトイレで着替えて時間をつぶせる場所をさがしました。図書館にも一日中いましたし、それも毎日だと怪しまれそうかなと思って山手線を一周1時間だな3回廻れば3時間潰せるなとか、当時はまだ少しあった3本立ての映画館へなけなしのお小遣いを使って入って見続けて。それを3か月続けてました。学校からの電話はどうしてたかな、思い出せないなあ。電話線抜いたのかな…。
 まあそんなことしていてもいつかは必ずバレるんですよね。とうとう担任の先生が家庭訪問に来たのです。その時の家族のことはあまり書きたくないんですけどね。辛い思いをさせてしまいました。姉妹の顔にも泥を塗ることになってしまいました。今でも謝っても謝り切れません。
 もちろん進級はできない、出席日数が足りないということで留年が決まってしまいました。当たり前の自己責任ですよね。学校側は退学するか来年やり直すかの選択でしたが両親は卒業させてくれると、甘えさせてくれました。来年もう一度やり直そうと言ってくれました。休学して来年度から一つ下の学年の子たちと勉強する道を選択しました。実はこの時の担任の化学教師が2年の時の女子クラスでのまとめ役をやっていた私を気に入ってくれたようでクラス編成の時に自分のクラスに欲しいと言っていたと後から聞かされました。先生の「お前のまとめる力が気に入ってたんだよね」の言葉に私は、「そんなの知らない!お前のせいだ!」と思ってしましました。期待されていたのは大人の今になれば理解してあげられるけど、それってやっぱり大人の都合だよなとも思うしそれに答えてあげられない自分もやっぱり子供だよなあと。
 ただ、当時の私は「他者への依存がとても強くて一人でいられないヤツだった」と、それに気づけたことはとても良かったのかなと思います。

 次の4月までの残りの数か月の休学中はアルバイトをして過ごしました。お金を稼ぐことの大変さを、また学費を出さなければならない両親の苦労を自分が働くことでやっと気づいたのです。

 再び高校3年。始業式は出られませんでした。教室には行けたのですがまた臆病風が吹いてしまいました。始業式が終わってクラスメイトと担任の先生が入ってきて開口一番に担任に怒られました。新しい担任は国語科の元剣道部主将のOBのメガネ先生でした。この先生には本当にお世話になりました。あまり他の生徒と分け隔てなく特別扱いをしません。何事にもあっさりとしているようで見るところはきちんと見ていて優しくてカッコいい先生でした。

 正直、登校前は「あーいやだなあーまた学校通えなくなるかなー」と思っていましたが、一日、二日と通ううちに、なんだか空気が違うことに気づきました。先生と生徒の間の空気感が違うし距離も近い。クラスの雰囲気も明るいし活気がある。男子も屈託なくて楽しいし女子も年齢が違うことを知っても平気で話しかけてくる。ほかのクラスも概ねこんな感じなようで、学年が一つ違うだけでこんなにも違うのかと思いました。前の学年の時のよそ者を排除する感じが無いのです。それからは同級生に「ねえちゃん」と気さくに呼ばれながら一年を過ごしました。小学生のころからずっと続けていた卒業アルバムの係を高校でも務めることができました。文化祭も喫茶店をやりながら片隅でタロットカードで胡散臭い占い師をやらされたりしました。謎の人物ということでの抜擢です。占い嫌いの私ですがタロットだけは今でも覚えています。

 その文化祭に1年の時に同級生だった友達が同じく同級生だった彼氏と一緒に遊びに来てくれました。「何やってるのかな、顔を見たいと思って」と言ってくれました。その時、今のクラスでみんなに愛されているキャラの男子がそっと出てきてその友達の彼氏と話しはじめたのです。その時初めて知ったのですが、その男子も一年留年をしていたとのことなのです。そんなこと感じさせない明るい良いやつで、普段はバカばっかり言って先生をからかっているけれど、陰でそっと元気のないクラスメイトに声掛けをするような本当に優しい男子だったのです。本当に自分は何も知らないけどそういう努力はこっそりと続けられているんだなと。無知な自分を恥じました。


 去年まではひとつ年下の子たちに親密にかかわりあうことなんてないだろうななんて思っていたのですが、この2学期が終わるくらいには前の学年のキラキラ女子や重苦しい空気感のないこの学年に来れてよかったなと思っていました。その時期に同じようにクラスで不登校になってしまった子がいて、翌年留年しようかどうしようか悩んでいたらしく、その子の親友から何か手紙を書いてくれと頼まれたりもして、ああ、私もこの学年の仲間として見てくれているんだなと嬉しかったです。

そんな新しい仲間とは3月には無事に一緒に卒業式を迎えることが出来ました。
そして「人に依存しすぎることは良くない」ということを、ようやく覚えたのです。


 
 今回、とある人の記事を読むために久々にnoteを開いて記事を読んでいて、「記事募集中」の案内で今回の「8月31日の夜に」のタグについての件を読んだときに「あーこんな記事を書く人はきっといい人だ、私だったら説教しか出てこないかもしれないし偉そうなことを言うかもしれないわあ、私にこの子たちの気持ちなんてわかるか」と思ったあとに「あれ?」となって「そういえば…私…登校拒否してたわ…高校は4年だったわ…」と思い出しました。それくらい忘れていました。すっかり記憶が抜け落ちていました。そして「これ、私が書いておいたほうがいいのかもなあ…」とも思ってしまいました。
 
 「そんなにお前の悩みは簡単に忘れるような軽いことだったのか」といわれるとそうでもなかったです。高校卒業してからもしばらくは留年という言葉は心の中で何かとつきまといました。また「何故4年かかったのか、何故学校へ通えなかったのか」を誰かに聞かれたら説明できるようにしておけと卒業時に担任からも言われましたので毎日のように考えていました。実際はまわりからそこまで聞かれたことはなかったですけどね。もちろん後悔はし続けていました。沢山の人に迷惑をかけていたことだけは心の中にいつもあって、何かにつけては思い出しては記憶の奥底へ沈めよう、蓋をしようともがき続けていたように思います。


 人はより大きな広い「社会」に出ると自分という個に対する自己認識はイヤでもどんどんと小さくなっていって、年齢をさらに重ねるうちに学生時代のことを思い出すことも話題になる事もなくなっていって、思い出はただの「過去への郷愁」になっていくだけなんだなと思います。社会人は常に先を見ながら歩かなければいけない、大学以降はたぶんそうなっていくものなんだなと思いました。そうやって私は自分を守って過去を見ないふりをしながらここまで来てしまいました。
 でも今回自分の高校時代を思い出してみて「そうじゃないんだなあ、埋もれさせる個を掘り起こすのも自分の力でのみできることだ」ということを知りました。結構キツイ作業ですけどね、想像以上に自分が社会にもまれて強くなってましたよ。

 あの頃、今のように不登校について自分から相談できるところがたくさんあって、図書館では「いいぞいいぞ!うちに逃げておいで!」と誘ってくれて、ネットでこうやっておせっかいな大人たちがたくさんいてワイワイと手ぐすねひいて待っているような環境だったら不登校しなかったか、と言われたら…どうなったのかなあ、ちょっとわかりませんが、とりあえずひとりじゃなくて話し相手になら困りそうもないなあ。あの逃げ回っているだけの頃は本当に孤独だったもんなあ。よし、話してみようかなってそう思えてたら今とは違うのかな。いろいろと考えてしまいました。

とりあえず、私の悩みとあなたの悩みは全然違うだろうけど大人は少なからず聞けるみたいだぞということは知っておいて欲しいです。
 

ちょっとは違うはずだと思いますし違っていて欲しいです。