持続可能な社会を目指すために

 他人をけなしてばかりいる私にしては珍しく、 YouthCreateの原田謙介さんもリディラバの安部敏樹さんも尊敬をしています。

 原田さんは政治参加に関する運動の先駆者です。政治参加っていうとどうしても選挙割みたいな国政選挙参加コンテンツが出てきてしまう。けれども、原田さんは地域を重視し子ども達に地域を問題を考えさせようという方向に持ってこうとする取り組みをやっていて、あるべき政治教育を実践していると思っています。

 リディラバに入りたいなと思っていた時期もありました、実は。実際にツアーに参加して現地に行くこと人の話を聞くことが大切だなと再確認しました。

 大学で同じゼミだったというこのお二人の対談、政治参加と教育の話は大体肯首できるのですが、蛇足のような最後の一章「現代はもはやシルバーデモクラシーじゃない」の内容は、首をかしげざるをえませんでした。

18歳選挙は行われたけど「若者と政治」って今後どうなるの?(後編)


論点1:日本は「大きな政府」なのか(事実確認)

 安部さんは次のようにおっしゃいます。

「少し18歳選挙の話から広がるけど、多分自民党が大きな政府に偏り過ぎちゃったのが良くなかった」

 日本は大きな政府なのか小さな政府なのか、安部さんは大きな政府つまり政府が社会保障を積極的に担う政府であると認識しています。そしてそこに問題があるのではないか、と。

 しかしながら、最新の学説では、戦後の日本政府(ほとんどは自民党政権)は小さな政府であるという認識が一般的なのではないでしょうか。

 近年に出版された書籍に、前田 健太郎 の『市民を雇わない国家』があります。私は未読なのですが書評を読む限り、日本は政府・自治体職員だけでなく各種独立行政法人などを合わせても公務員の数がOECD諸国の中で一番少ないことを明らかにしています。この書籍の中での公務員数が少なくなった理由については異論はあるかと思いますが、公務員数で考えるならば小さな政府であることについては立場を越えて異論がないと思います。

 また、最近、井手英策・古市将人・宮崎雅人は今年の年始に出した書籍『分断社会を終わらせる』の中で、池田勇人政権時に所得税の最高税率が20%と決められ、それ以降毎年のように減税が続けられてきたこと、低い税率と経済成長の鈍化による収入の低下を国債で補ってきたことを説明しています。国民の負担という意味においても小さな政府だと言って間違いないでしょう。

 井手らの議論で私は1点修正したいところがあります。井手らは戦後保守政権が公共投資によって地方に雇用を創出して、それが一種の政府ティーネットになっていたとします。しかしながら、斉藤淳の『自民党長期政権の政治経済学』によれば公共投資は太平洋沿岸の都市部に重点的に行われており、むしろ、山陰などの地方部は自民党の支持エリアでありながら後回しにされてきたそうです。地方が中央(自民党政権)から経済的に自立することは自民党を支持しなくなることを意味し、都市で得た税収を補助金として分配しながらも、インフラ整備を後回しにし支持を保ってきたというのが斉藤の分析です。もし、斉藤の分析が妥当だとすると、かつての自民党政権は開発独裁的な大きな政府とも言えないのではないかと思われます。この辺はもう少し議論があっていいところだと思います。

 「親方日の丸」という言葉にも代表されるように、権威主義的な政権が続いてきました。そして、 権威主義的であるということと積極的な財政を行うということ(「大きな政府」)は、日本では同じことのように考えられています。しかし、本当にそうでしょうか。例えば、チリのピノチェト政権に代表されるような冷戦期の右派の独裁政権は、権威主義的な政治体制をひきながら経済においては小さな政府を志向していました。ピノチェトのような暴力は振るっていませんが、日本の自民党政権もまた権威主義的な小さな政府であったのではないでしょうか。権威主義と積極的な財政を結びつけてしまう先入観に私達は自覚的になった方がいいかもしれません。


論点2:「未来」のために「現在」は犠牲にならなければいけないのか

論点1と関連する話で、何よりも今回の対談で疑問があったのは、この部分です。以下に抜粋します。

 「あと、今政治そのものも変わっていることは大いにあって、今回の参院選の公約見てても、奨学金出しますとか子育て支援やりますとか若者向けの政策がかなり出てきているんですよ。悩ましいところなんですが、財源がないのにただ大きい政府にするっていうのって変な話だと思いませんか?個人的にそれは嫌で、どの政党も維新とかを除いて、ただ大きな政府になりますって言ってるようなもんじゃないですか。それに対して批判がない世の中ってどうなんだろうと思っています。

(略)

今はもはやシルバーデモクラシーじゃないんですよ。今生きてる人世代デモクラシー。誰もがいい状態じゃないですか。低所得者には1億円配られるし、高齢者も年金減らないし。未来の世代に借金を回しているだけでしょ。」

 この手の話で必ず槍玉に上がる低所得者への一時的な給付策。フローレンスの駒崎氏も昨年度、低所得高齢者への給付をやたらと槍玉に挙げていました。私もこれには批判的ですが、理由が全然違って、一時的であり、対象者と非対象者のボーダラインで不平等が起こるからです。

 なぜ、「未来」と「現在」は対立関係にならなければならないのか、そして「未来」のために「現在」は犠牲にならなければならないのか、そうであるのならば非常に非倫理的なのではないかと私は思います。

 現実に貧困という問題があって、また、事務系の明らかに大卒の能力が必要ないのに大卒以上でないと採用しないという雇用のあり方がある。制度を見直すとか金出すとか規制をかけるとかなんらかしないといけないわけですが、そういうことすると将来的にお金がなくなるからしませんといって見殺しにしてしまうようでは、何のために税金を取って政府を運営しているのかわからなくなってしまう。真っ当に学び真っ当に働く権利を保障することを憲法の下で私達は約束したのであって、そのことへの希望によって日本という国民統合を実現しています。それを簡単に諦めてしまうことは、日本国憲法と日本政府への不信につながってしまう。

 そもそも、権利ということを脇に置いたとしても、現在に投資することが未来の優秀な人材を生み出し税収増に繋がるかもしれないのに、なぜ対立関係に置かれてしまうのでしょうか。

 この手の議論で似て非なるものが「持続可能性」という考え方です。途上国での開発の拡大が世界的な環境問題となっていた時に、先進国並を目指す途上国と将来の人類の存続を不安視する先進国が共有する概念として提唱されたのが「持続可能性」でした。持続可能性とは「将来世代のニーズを満たす力を損なうことなく、現在世代のニーズを満たすこと」。輝かしい未来のために現実を諦めなさいとは一言も言っていません。

 開発と環境の問題に限った話ではなくて、日本の社会保障の問題であってもどうしたら現在世代と将来世代のニーズを共に満たすことができるのかという視点で議論が必要でしょう。その時に、現代世代の実現欲求を無下に否定することはできないと私は思っています。その為に税と社会保険料の一体改革が、、、と言いたいところですが、政策論議に踏み込んでしまうので、ここまでで止めておきます。


おまけ:政治的中立ってさ、、、

 主権者教育論者一人一人が政治的な意見を持つのは当然だと思います。仕事上の要請で明かすことはできないにしても。私が一つ心配なのは、主権者教育に携わる人は多様な意見を持っているはずなのに、聞いてみると意見の方向性が総じて同じだってことです。私は、何人も主権者教育に関わる団体の人間に会ってきました。一人として積極的な財政で頑丈な社会保障を実現しようという方はいらっしゃいませんでした。誰もが社会保障費の削減を支持しているようでした。

 緊縮による財政再建論と主権者教育という本来結びつかない次元の問題が謎の結合をしているようです。すべての活動家がそういう動きをしているわけではありませんが、一部の活動家は公正中立の格好をしながら、主権者教育を使って特定の政策(緊縮による財政再建論)に誘導しようとしています。たかまつ某氏とか斎木某氏とか、他に列挙するのはやめましょう。

 私は、原田さんはそういう人ではないと思っているし、そういうことに対して非常に禁欲的でした。でも、政治思想的にはそっちなのかと知って少し残念でした。原田さんの個人の自由の世界ですではありますが。

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