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冥十夜 #第一夜

夏目漱石『夢十夜』より第一夜の二次創作です。元の文章は青空文庫でも読めますので、未読の方は是非ご一読ください。

第一夜

こんな夢を見た。

枕元へ伸ばした右手の先に握られたライターが、仰向けに寝た女の口元にある煙草に火をつけた。そのとき、女が煙草を咥えたまま静かな声でもう死にますとう。煙草が倒れぬよう力強く閉められた唇は、真白な顔の中で煙草の先よりは少し薄く赤に艶めいていて、到底死にそうにない。しかし女は煙をまとわせた口で、もう死にますと判然はっきり云った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はまた煙草の煙を吐いた。白煙越しにあるのは大きな潤いのある眼で、長い睫毛まつげに包まれた中は、千紫万紅の輝きを帯び揺らぐ光に合わせて、赤へ青へとその色を変えた。その爛然らんぜんとしたひとみの奥に、自分の姿が揺曳ようえいする煙越しに浮かんでいる。

しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きなビードロの灰皿で穴を掘って。そうしてまだ吸っていない新品の煙草を墓標はかじるしに置いて下さい。そうして墓のそばで待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちていくうちに、――あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯うなずいた。女は咥えた煙草をひと吸いしてから、
「百年待っていて下さい」と煙と共に吐き出し云った。
「百年、私の墓の傍に座って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。すると、玲瓏れいろうたる眸のなかに揺曳する自分の姿が、逗留とうりゅうしていた煙と共に崩れて来た。煙で隠れた顔の輪郭が判然として来たと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。まだ長い煙草の先端から灰が口の中へ落ちた。――もう死んでいた。

自分はそれから庭へ下りて、ビードロの灰皿で穴を掘った。灰皿は真円状で縁の鈍く持ち難い形だった。土をすくうたび、指の骨の隙間に灰皿の縁が食い込みズキズキした。湿った鉄の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土と煙草の灰を、上からそっと掛けた。掛けるたびに煙草を吸いビードロの灰皿の上に灰を溜めた。
それから新品の煙草を取り出して、かろく土の上へ立てた。煙草はたおやかだった。長い間穴を掘っている間に、大地の湿気を吸って柔らかくなったんだろうと思った。つまみ上げて土の上に置くうちに、煙草に指の跡がついた。

自分は灰の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、一服をして、地面に立った煙草を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それが女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一吸いと自分は勘定した。
しばらくするとまた唐紅からくれないの天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二吸いまた勘定した。
自分はこう云う風に一吸い二吸いと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分からない。赫赫かっかくとした日と鬱勃うつぼつたる雲の反芻はんすうが、女の呼吸にあわせて発光する煙草に似ていた。ただその光の奥に女の白く美しい顔はなかった。霞がかった霧の日などは、女のいたずらに吐いた煙の匂いまで感じられた気がするほどだった。それでも百年がまだ来ない。しまいには、飄飄ひょうひょうなびく灰を眺めて、自分は女にだまされたのではなかろうかと思い出した。

すると煙草の下からはすに自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。煙草をひと吸いする間に長くなってちょうど自分の咥える煙草のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂に、心持尖らせた口先のように細長い一輪の蕾が、ふっくらとはなびらを開いた。薄紅な煙草の花が、煙を希求ききゅうするように伸びた。そこへ遥か上から、ぽつりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふら動いた。自分は煙草を摘んで前へ出して、冷たい露の滴る花弁はなびらに咥えさせてやった。赫焉かくえんとして燃える先が白んだ拍子に煙草を離してやると、花から逍遥しょうようと煙が出て来た。茫茫ぼうぼうと昇る煙を目で追うと、遠い空に暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

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