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日本が高度経済成長時代の昭和に多感な青年だった男の音楽と映画の備忘録。 音楽からファッションやダンスを学び、外国文化への憧れを抱きながら青春時代を過ごし、30代からR&R系MC&… もっと読む
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TheMacshow! 現代最強R&R

The Macshowを知ったのはヴィーカル岩川さんのTHE COLTの活動を追っていいた2002年、このR&Rバンドの活動を始めた。 当時はR&Rでは食えないと言われた不毛の時代に突如としてキャロルが今の時代に現れたらこういう感じなのかと思いを馳せた。 2002年以降地道にLIVE活動を重ねて徐々に世間的にも認知されはじめた。 ●コージー・マック(岩川浩二・いわかわこうじ) ボーカル&ギター ●トミー・マック(神田朝行・かんだともゆき) ベース&ボーカル2023年10月に脱退 ●バイクボーイ(コイズミ ヒロアキ) ドラムス&ボーカル担当 自主レーベルから走り出したバンド 2008年までの怒涛のアルバム5枚目「フルスロットル・レッドゾーン」勢いを後押しでハズレなしのアルバム構成。 この三人のバンドだが、音が厚くとても三人とは思えないサウンド 岩川さんの作詞作曲の楽曲が昭和の香りぷんぷんの歌詞と、ギターリフが60年台のリフも多用されており当時のファン40〜60代まで熱狂し一緒にLIVEに連れてくる子供達にも影響を与えた。 またこのバンドのサイトデザイン・ジャケットやグッズもどのデザインコンセプトも岩川氏が手がけて昭和やビートルズを意識している。 ステージングもMCもとてもインディーズとは思えない完成度で、すぐにメジャーになると感じていた。テレビ番組も多方面で活躍しメジャーバンドへもヘルプでNHKに出てたりもしている。 革ジャン革パンを甦らし昭和のR&Rがダサいを覆したバンドである。 ハイウェイを走るような疾走感、メローな曲に切なさを感じたりと天才的な岩川氏の成せる技と思います。 大手音楽事務所も新人バンドのプロデューサーとしてお願いするも断る生粋のミュージシャン。 芸能界の交友関係も幅広くメジャーからローカルバンドまで及ぶ。 経営していたLIVE HOUSEにも来ていただいたり、神田ナイトなどお付き合いをさせていただいていたことを思いだす。 何度も所属事務所のツアーなどイベントではお世話になっており、各地どこに行っても爆発的な人気を誇っていた。 2023年10月神田さんの脱退でこれからどうなるのかぁ・・・あの三人の音楽が聞けなくなるのは寂しい。 今回のLIVE動画は2008年4月13日に渋谷の野音でキャロル解散記念日に行われたイベントでLIVE中に「R&Rじゃ食えねぇ〜って言った奴らザマーミロ!」と会場がボルテージ最高潮から始まった。 この後解散かと噂されたが一度活動休止のちに活動再開した。 公式サイトhttp://bad-rec.com/pc/

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アメリカングラフティ1973

以前大好きなOLDIES映画で紹介した【アメリカングラフティ】 『アメリカングラフティ』は、1973年にアメリカで製作された映画です。 ベトナム戦争直前の1962年の夏、カリフォルニアの町で起こる10代の若者たちの出来事を描いた青春映画です。 監督はあのジョージ・ルーカスでこれは彼の出世作 主演はリチャード・ドレイファスやロン・ハワード、ポール・ル・マトなどが務めました。今でもラスヴェガスの車のイベントなどでブロマイドサイン会をしており、何度か出演者に会ってることも好きな要因かなw 【ストーリー】 カリフォルニアの町で起こる1962年の夏の出来事を描いた映画です。 高校を卒業したばかりのカート、カル、ボビー、スティーブら若者たちは、自分たちの未来について考えながら、街を練り歩きます。 そんな彼らの前に、車やロックンロール、恋愛などが登場し、思春期ならではの喜怒哀楽を繰り広げていくというストーリーです。 【時代背景】 『アメリカングラフティ』は、1960年代のアメリカ文化を反映した映画であり、当時の音楽や車、ファッションなどが登場しています。 また、映画の舞台となったカリフォルニアの町も、当時のアメリカを象徴するような街並みが描かれています。 さらに、映画の音楽も当時のヒット曲が多く使われており、映画と音楽が一体化している点が特徴的で魅了されました。 『アメリカングラフティ』は、そのリアルな描写や、当時のアメリカ文化を反映した内容が長らく世代経ても高く評価されています。 また、当時のamericanPops/OLDEIS音楽・車など登場することで、懐かしさを呼び起こし、映画の魅力を高めたと評価されています。 映画の興行収入も成功し、現在でも多くのファンに愛され続けています。

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夏の終わり/キャロル1974

こんにちは、音楽愛好家の皆さん!今回は、今の時期に無性に聞きたくなる日本のロックバンドキャロル(CAROL)の「夏の終わり」についてご紹介します。 キャロルというよりも矢沢永吉が今はわかりやすいね。 矢沢が所属したキャロルは短い活動期間にもかかわらず、その音楽は多くの人々の心に深い印象を残しました。 キャロルは1972年に結成され、その活動期間はわずか3年間でした。バンドはブルースやロックなどの要素を取り入れた個性的な音楽スタイルで知られており、その音楽は1970年代から1980年代初頭の日本の音楽シーンにおいて注目を集めました。 私自身はジョニー大倉氏の楽曲がキャロルを代表する曲も多く、メロディーが秀逸、声も甘く切なく名曲揃いで大好きです。 「二人だけ」 作詞:大倉洋一(ジョニー大倉) 作曲:矢沢永吉 ジョニーさんの声に憧れた、歌い方も好きですね。 ぜひ永ちゃんとジョニーの声を比較してください。 https://youtu.be/_6GGrOp8uiE?si=DXXd8jVN9ABbPY68 ドラマでも唄ってます、俳優ジョニー大倉さんもどうぞ「二人だけ」 https://youtu.be/dFhRt7INtlY?si=P9FFkV08Fts2KmsN 「夏の終わり」 矢沢永吉氏の作詞作曲 「夏の終り」は、2007年9月5日に発売の矢沢永吉の50枚目のシングル。 この楽曲は、作詞作曲を矢沢永吉が担当して1974年に発表されたキャロル時代の名曲「夏の終り」のセルフ・カバーとしてソロシングルがあります。 キャロルの代表曲として知られる「夏の終わり」は、そのタイトル通り、夏の終わりに感じる切なさや別れの情景を歌った楽曲です。この曲の歌詞は、夏の訪れとともに生まれる別れの切ない気持ちを繊細なメロディと共に表現しています。力強いボーカルとメロディアスなギターリフが、聴く人々の心に深く響く要素となっています。 キャロルの代表曲「夏の終わり」は、その短い活動期間にもかかわらず、多くの人々に心に残るメロディと切ない歌詞を提供しました。バンドの音楽は日本の音楽史において重要な位置を占め、その影響力は今もなお色褪せることはありません。 音楽ファンにとって、キャロルの楽曲は永遠の名曲として輝き続けています。 それでは、また次回の音楽トピックでお会いしましょう!

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Tony Bennett R.I.P

2023年7月21日:米国の大物歌手、トニー・ベネットさんが21日、米ニューヨークで96歳で死去した。 歌声が大好きでジャンルが幅広く、数々の大物歌手とのコラボは素敵でした。 ご冥福をお祈りいたします・・・・。 アンソニー・ドミニク・ベネデットは1926年8月3日、ニューヨーク市クイーンズ区生まれ。2021年2月、ベネットが2016年にアルツハイマー病と診断されたことが明らかになった。病気の進行が遅かったため、2021年8月に体力的な問題でコンサート活動から引退するまで、レコーディング、ツアー、パフォーマンスを続けていた。 トニー・ベネットとして知られる彼は、伝統的なポップ・スタンダード、ビッグバンド、ショーチューン、ジャズを歌うアメリカの歌手である。画家でもあり、自身の出生名で制作した作品は、いくつかの施設に永久展示されている。ニューヨーク州クイーンズ区アストリアにあるフランク・シナトラ芸術学校の創設者でもある。 ベネットは幼い頃から歌い始めた。第二次世界大戦末期、アメリカ陸軍歩兵としてヨーロッパ戦線で戦った。 その後、歌のテクニックを磨き、コロムビア・レコードと契約、1951年に「ビコーズ・オブ・ユー」で初の人気ナンバーワンを獲得した。1953年初頭には "Rags to Riches "など数曲が続いた。その後、彼はジャズ・シンガーとしてのアプローチに磨きをかけた。1950年代後半、『The Beat of My Heart』や『Basie Swings, Bennett Sings』などのアルバムで芸術的ピークに達した。1962年には代表曲「I Left My Heart in San Francisco」をレコーディング。ベネットのキャリアと私生活は、ロック・ミュージック全盛期に長期低迷を経験した。ベネットは1980年代後半から1990年代にかけてカムバックを果たし、再びゴールド・レコードのアルバムを発表し、自分の音楽スタイルをそのままに、MTV世代にまでその裾野を広げた。 ベネットは21世紀に入っても人気と批評家の賞賛を集める作品を作り続けた。アルバム『Cheek to Cheek』(2014年)から始まったレディー・ガガとのコラボレーションは高い評価を集め、2人は2014年から2015年にかけてアルバムのプロモーションのために一緒にツアーを行った。 このデュオのセカンド・アルバム『Love for Sale』(2021年)のリリースにより、ベネットはビルボード200チャートでトップ10入りを果たした最長記録(1962年の『I Left My Heart in San Francisco』)を更新した。ベネットはまた、95歳と60日で新曲のアルバムをリリースした最高齢記録も更新した。 ベネットは、グラミー賞19回(2001年の生涯功労賞を含む)、プライムタイム・エミー賞2回など、そのキャリアを通じて数々の賞賛を集めている。NEAジャズ・マスター、ケネディ・センター名誉会員にも選ばれている。ベネットは世界中で5,000万枚以上のレコードを売り上げている。 情報はウィキペディアなどより

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R.I.P 坂本龍一

(この動画は無くなる10年前) 少年時代からY.M.Oで知り尊敬するミュジシャンでもあり、福島原発事故後にさまざまな場所で反原発を宣言されその生き方に感動し勇気をいただいた、心から感謝します。 最近の病状から心配をしていたのだが残念だ。 ご冥福をお祈り申し上げます。 2023年3月28日「世界のサカモト」と評された音楽家の坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが死去したことが4月2日分かった。71歳・東京都出身。 非常に残念なニュースです。 坂本龍一さんは、日本の音楽界を代表する偉大な音楽家の一人であり、世界的にも高く評価されていました。 彼の幅広い音楽性と革新的なアプローチは、多くの人々に影響を与え、多大なる感銘を与えました。彼が残した音楽は、今後も後世に受け継がれていくことでしょう。 心よりご冥福をお祈りいたします。 https://www.youtube.com/watch?v=H4hWMqYCGKQ

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15歳で出会うラジオから流れるOLDIES。

2023年9月時点で動画が・・・・残念 代わりにこちらを! https://youtu.be/tN-0Hz0balk?si=7k-XzhqIzkm6-E91 深夜にラジオ流して勉強も途中から、流れてくる洋楽OLDIESの楽曲名やアーティストが気になって勉強どころじゃない15歳の少年w 外に出歩くにもラジオ持参しながら仲間と楽しんだ。 時代は好きな音楽の持ち出しが可能となり、カセットテープでウォークマンに自分の好きなOLDIESを入れ、それを車で彼女に聴かせたいだけのデート(笑) 時代は1970年代後半、ラジオから流れるOLDIES(オールディス)と言われる50〜60年代の洋楽に心奪われた事で、映画アメリカングラフティもいまだに大好き。(この映画で使われる楽曲がOLDIESであり、ウルフマンジャックのラジオDJ役で出演も話題だった) そのOLDIESからELVISやThe Beatlesを知ることにつながっていく。 その後全国にあるKENTO'Sを半年で全国制覇、全国に仲間を増やした2000年初頭。OLDIESは人生を豊かにしてくれた。 今回は長めのラジオ風に聞いて欲しくて、こちらの音楽だけの動画をご紹介。 何か作業の気休めに聴いてくれたら嬉しいです。 オールディーズ[oldies] 懐かしの名曲。1900年頃からすでに使われていた言葉だが、一般的には'50年代から'60年代前半にかけてのポップス、ロックン・ロール、リズム&ブルースなどを指す。 ●OLDIES音楽がラジオで流れ続ける理由には、以下のような理由が考えられます。 1.リスナーのニーズに応えるため OLDIES音楽は、50年代〜70年代など、過去に流行した時代の音楽であり、多くのリスナーにとって懐かしい思い出があるという点があります。ラジオ局は、このようなリスナーのニーズに応えるため、OLDIES音楽を取り上げているということがあります。 2.ヒット曲が多いため OLDIES音楽には、多くのヒット曲が含まれています。これらのヒット曲は、時代を超えて多くの人々に愛され続けており、ラジオ局はこれらの楽曲を取り上げることで聴取率を上げることができます。 3.音楽ファンにとって重要な存在であるため OLDIES音楽は、多くの音楽ファンにとって重要な存在であり、その音楽の歴史や背景に興味を持っている人も多くいます。ラジオ局は、このような音楽ファンの要望に応えるために、OLDIES音楽を取り上げることがあります。 4.ラジオ局の特色として定着しているため 一部のラジオ局では、OLDIES音楽を専門に取り上げる番組や、OLDIES音楽に特化した局があります。これらのラジオ局は、OLDIES音楽をラジオ局の特色として定着させることで、リスナーに親しまれています。 以上のような理由から、OLDIES音楽はラジオで流れ続けています。

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YMO高橋幸宏 R.I.P

青春時代をありがとうございました、ご冥福をお祈り申し上げます。 78年に坂本龍一(70)、細野晴臣(75)と「YMO」を結成。シンセサイザーを大胆に使った演奏で80年代にテクノブームを巻き起こした。80年発売の代表曲「ライディーン」は高橋さんの作曲。日本のポップスシーンに与えた影響は計り知れず、正確なリズムのタイトなドラミングでYMOを支えたのが高橋さんだった。 1980年代にテクノブームを巻き起こした伝説のバンド「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のメンバーで日本を代表するドラマーの高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)さんが亡くなったことが14日、分かった。70歳。東京都出身。死因や日時は明らかになっていない。2020年8月に脳腫瘍の摘出手術を受け、闘病中だった。高橋さんはYMOの音楽面だけでなく、赤い人民服など独特のファッションを打ち出すことで世界に衝撃を与えた。   関係者によると、高橋さんは静養先の長野県軽井沢町で年明けに肺炎を患い、容体が悪化した。亡くなったのは今週とみられ、仕事仲間や親しかった人たちへの報告が始まっている。  20年初夏から断続的な頭痛に悩まされ、同年8月のMRI検査で脳腫瘍と判明。摘出手術は成功し、入院治療の全工程終了を報告した同10月のツイッターで「新幸宏になって戻ると決意しました」と宣言。軽井沢の別荘で静養する一方、通院治療を続けた。  しかし、21年6月に定期検診を受け、「まんまと嫌な予感が当たり、また別の治療始めます」と投稿。再発ではないとしながらも、詳しい治療内容などは明かさなかった。  病魔と闘う原動力になっていたのが、プロデビュー50周年記念ライブへの出演。70歳となった自身の始まりの場と位置付け、何年も前から構想していたものだ。復活の舞台とするべく前を向き続け、懸命に治療とリハビリに取り組んでいた。公演自体は開催されたが、本人は出演できなかった。  その評価は日本にとどまらず、結成翌年から2年連続で世界ツアーを敢行。83年に“散開”するまでわずか5年の活動ながら、全世界でレコードの売り上げは500万枚以上に達した。高橋さんはファッション面でも斬新なグループイメージを構築。もみ上げをそり落としたテクノカットや赤い人民服などで世界に衝撃を与えた。  YMOはその後、“再生”と称して再結成を繰り返した。19年12月に開かれた細野の音楽活動50周年記念公演では、事前収録された坂本の映像に合わせる形で高橋さんらが演奏、「YMO復活」と大きな話題を呼んだ。その坂本は現在、最も重いステージ4のがんを公表して闘病中だ。 ソロ活動やプロデューサーとしても実績を上げるなど、第一線に立ち続けた高橋さん。ミュージックシーンにとどまらず、サブカルチャーなどにも大きな足跡を残し、国内外に与えた影響は計り知れない。  ≪72年「サディスティック・ミカ・バンド」加入しプロデビュー≫  高橋 幸宏(たかはし・ゆきひろ)1952年(昭27)6月6日生まれ、東京都出身。72年に「サディスティック・ミカ・バンド」に加入しプロデビュー。78年に「YMO」を結成。02年に細野と「スケッチ・ショウ」、14年には小山田圭吾らと「高橋幸宏&METAFIVE」を組んだ。主なソロ曲に「前兆」や「1%の関係」など。兄は音楽プロデューサーの高橋信之氏。 https://news.yahoo.co.jp/articles/05091066608a45c66fe19bfa314bb99969bc5e3f

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林田健二1990年代楽曲

林田健二さん テレビにはあまり出ないので知らない方も多いかと思いますが、CM曲などにも使用されたりしているので耳にしたことがある歌もあるかもです。 約30年前に友人がコンサートチケットが1枚余っているので行かない? と誘われて出会ったシンガーソングライター。 まったく無防備の情報ないまま当日会場で、歌唱力と歌詞の独特な使い回し、見事な転調からのメロディーに衝撃を受けたことをきっかけに聴く様になった。 その後も幾度となくコンサートへ出かけた。 SMAPへの楽曲提供も『$10』、『君色思い』、『KANSHAして』、『青いイナズマ』、ブラックビスケッツの『STAMINA』などがある。 その後に本人歌唱が秀逸(苦笑) 歌詞作りが独特で通常使わないワードがてんこ盛り、お相撲とか、MJのようにスキャットも見事にはめる。 「ダラダラしようよ」なんて歌詞も「温泉」などのキーワードも上手にはめ込むのには不思議としか言いようがない。 切ないバラードから、アップテンポの曲も転調させ方も申し分ない。 日本人でここまでセンスのいいシンガーソングライターにはなかなか出会えない、上手だけではないのですよ。 ぜひこの動画の1990年楽曲のタイムラインから楽しんで2023年スタートしてくださいませ! 10番目の青春謳歌などからいかがでしょうか? 00:00 01.SHERRY 05:10 02.Jealousy In Love 09:58 03.Heart Of Gold 15:18 04.青いイナズマ 20:22 05.Crazy Funky Down 24:12 06.花に水やるラブ・ソング 29:27 07.ダラダラしようよ 34:45 08.Physical #2 39:22 09.STAY 45:34 10.青春謳歌 50:37 11.パッとした瞬間 55:56 12.僕なりの勇気 1:01:18 13.まだまだ 1:06:17 14.紅いマボロシ

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アイリーン・キャラさん死去 映画『フラッシュダンス』

何度も青春時代に欠かせないダンスと映画や音楽で話題にしてきたが・・・・ 心から感謝と哀悼の意をR.I.P やっぱり当時の彼女も美しいかったなぁ〜 こちらは映画「フラッシュダンス」MVで今でも大好きな動画です。 https://youtu.be/miax0Jpe5mA 【11月27日 AFP】1980年代の米映画『フェーム(Fame)』『フラッシュダンス(Flashdance)』の主題歌で知られる歌手で俳優のアイリーン・キャラ(Irene Cara)さんが死去した。63歳。広報担当者が26日、AFPに明らかにした。 広報担当者によるとキャラさんは25日、フロリダ州の自宅で亡くなっているのが見つかった。死因は現時点では不明。 キャラさんは、米ニューヨークの芸術学校に通う生徒たちの試練と成功の物語『フェーム』(1980)に出演し、主題歌が大ヒット。グラミー賞(Grammy Awards)の最優秀新人賞と最優秀女性ポップ・アーティスト賞にノミネートされた。  また、ダンサー志望の女性の人生を描いた『フラッシュダンス』(1983)では主題歌を共同作詞し、自ら歌った。翌84年にアカデミー賞(Academy Awards)の最優秀オリジナル歌曲賞を受賞し、グラミー賞も二つ獲得した。(c)AFP

嵐さん(横浜銀蝿)

7月上旬に横浜銀蝿の嵐さんが2022年7月4日に永眠されたと友人から連絡・・・幾度となく病魔に襲われながらも67歳まで現役でご活躍されました。 嵐さんにお会いしたのが、2006年2月ハワイ島で芸能人の結婚式で同席させていただいた、その時には脳梗塞後の参加で白い杖をつきながら参加されました。そこにはアメリカのミュージシャンshananaのメンバーも参加されて、アメリカナイズされたお祝いを目の当たりにし興奮したことも思い出す。ハワイ滞在中は何度も食事に同席させていただき、とても

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オリビアニュートンジョン 73歳で死去

今朝飛び込んできたニュース「オリビアニュートンジョン73歳で死去」 同じ時代を生きてきたオーストラリア出身カントリー歌手から世界的なシンガーになった方だった・・・ご冥福と感謝の祈り(合掌) 「そよ風の誘惑」や「フィジカル」といったヒット曲で知られる歌手、オリビア・ニュートン・ジョンさんが8日朝、米カリフォルニア州で亡くなった。 73歳だった。長らく乳がんと闘っていた。遺族がフェイスブックで発表した。  英国生まれ、豪州育ち。1970年代はカントリー系の楽曲が支持を集め、74年の「愛の告白」ではグラミー賞を獲得。俳優としても、78年の学園ミュージカル映画「グリース」に出演するなど実績を残した。ディスコ調の「フィジカル」は81~82年、米ビルボードで10週連続1位という快挙を成し遂げた。  日本との関係も深かった。76年にソロとして初来日。2010年と15年にツアーを行うなど、来日は10回以上に上る。15年は東日本大震災からの復興を祈り、福島でも公演をした。 尾崎亜美さんが作詞・作曲を手がけた杏里さんの「オリビアを聴きながら」でも名も知られ、21年11月には「音楽文化の発展、友好親善に寄与した」として、旭日小綬章を贈られた。  初めてがんと診断されたのは92年のこと。遺族の声明には「30年以上にわたる乳がんとの闘いで、勝利と希望のシンボルになった」

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ロネッツのリード歌手、ロニー・スペクターが78歳で死去(合掌)

お気に入りで、今でもよく聴く楽曲 ロネッツのリードのロニーさんが亡くなった・・・・。 哀悼の意を捧げます。(合掌) Yahoo記事抜粋 60年代に活躍したニューヨーク出身の女性歌手グループ「ザ・ロネッツ」のリーダーで、「Be My Baby」「Walking in the Rain(邦題:恋の雨音)」といった不朽の名曲を歌ったロニー・スペクター(本名:ヴェロニカ・ベネット)が、ガンとの短い闘病生活の末、1月12日に亡くなった。享年78。 【動画を見る】追悼ロニー・スペクター、ザ・ロネッツの名曲を振り返る 「ロニーは目を輝かせ、快活で、ユーモアのセンスに富み、笑顔を絶やすことなく人生を送りました」と、彼女の家族は声明で述べている。「彼女は愛と感謝の気持ちでいっぱいでした。彼女の喜びに満ちたサウンド、遊び心、不思議な存在感は、彼女を知る人、聞く人、見る人の中に生き続けるでしょう」 1943年生まれのロニーは、実姉と年下のいとこを誘って1958年に3人編成のグループを結成する。当初は「ダーリン・シスターズ」を名乗っていたが、のちにロネッツへと改名。ロニーの柔らかさと鋭さの入り混じった歌声は、ガールズグループ黄金時代の象徴というべきロネッツの楽曲に力を与えていた。1963年の夏に発表された「Be My Baby」は、プロデューサーのフィル・スペクターによるウォール・オブ・サウンドの傑作として高い評価を受け、のちの音楽シーンに多大な影響を与えた。同曲は米ローリングストーン誌による「歴代最高の500曲」ランキングで第22位に選ばれている。 その後もロネッツは、「Baby, I Love You」「Walking in the Rain」などヒット曲を連発。1964年には渡英してローリング・ストーンズとツアーを行ったが、60年代半ばには活動休止。1966年、ビートルズ最後のコンサートツアーの前座として北米を周ったのを最後に解散。ロネッツは2007年にロックの殿堂入りを果たした。 1963年、ロネッツと契約した直後にフィル・スペクターはロニーと関係を持つ。二人は1968年に結婚し、1972年に離婚。1990年の回顧録『Be My Baby: How I Survived Mascara, Miniskirts, and Madness, or My Life as a Fabulous Ronette』で、ロニーはフィルとの関係について、何年にもわたる暴力と虐待に苦しめられていたと綴っている。 https://news.yahoo.co.jp/articles/c8795f9b859e2efc6de0aea3298109acaf1ab98e

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Spinna B-ILL・ライオンの子

福島時代にLIVE HOUSEオーナーとして個性豊かなこの時代にロカビリー復活と夢を見始めた・・・・・がw 時代は多様性とジャンルの氾濫がおこっており、1つのジャンルで音楽系飲食店の経営は火を見るより明らかで、東京の様に1つのジャンルで客を集めることなど不可能の地方。 そこで音楽ジャンルを乗り越えたステージとDJ&MCブースでラジオ風BGMが流れる店づくりを始めた。 色んなジャンルのお客様が集ってきた中にレゲエ推しの子がいたんだが、おっさんはサードワールドくらいしか知らなかったってより、あまり聞いてなかったジャンルだった。 そこで俺は「何も知らないおっさんにレゲエを好きにさせる1曲はなんだい?」と聞いたらこの曲を流してくれた。 おぉ〜いい曲だな、おっさんでもわかるぞw そういう経緯でレゲエもたくさんお店でも使わせて頂いた。 今回はSpinna B-ILL(スピナビル)っていう日本人のこの曲を紹介します。(比較的新しいヴァージョンの様です) こちらの曲もおすすめです。 まっすぐに:Spinna B ill & the Cavemans https://youtu.be/tX4FluBac-8

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再リンク!『ドリームガールズ』(原題: Dreamgirls)

前回の記事でYoutubeが非公開になりましたので、代わりにこちらをリンクしました。 https://youtu.be/Fc7dQlP5AHA 『ドリームガールズ』(原題: Dreamgirls)は、2006年公開のミュージカル映画。トム・アイン原作・作詞によるブロードウェイ・ミュージカルの『ドリームガールズ』が原作。 ダンスミュージックディスコの原点かもしれない。 1950年代音楽にも人種差別があった時代に、黒人ミュージシャンレーベル・モータウンレコードとして世間を賑わせた映画。ラジオパーソナリティDJへレコードを流してもらうために賄賂を渡していた時代でのちに批判され事件にもなった時代の、次世代ミュージック先駆け的な歴史のミュージカル映画だが、内容もよくも出演者も大物ばかり、また演出も秀逸でラストまで飽きさせない。 モータウンにはあのマイケルジャクソンのジャクソン5がいたことでも有名。 wiki:黒人のレコード・レーベル、モータウンの伝説的な黒人女性グループスプリームスのメンバー、ダイアナ・ロス、メアリー・ウィルソン、フローレンス・バラードがモデル。 メアリーの自伝「Dreamgirl: My Life as a Supreme」がベストセラーとなり、『ドリームガールズ』としてブロードウェイで上演され、この舞台を映画化したもの。