〜恋愛戦略アウトプット〜vol.2『その「優しさ」って何が基準?』

どうも、クルスです。

友人の結婚式がありました。

久しぶりに昔馴染みの顔に会えて、こういうのも悪くないなと思いました。

その中でも、僕が前々から尊敬している友人がいるのですが

その友人はいつも僕の常識を超えていきます。

モラルや道徳的なことももちろんそうで

過去の僕は、何度か彼と衝突したことがありました。

「〇〇はこうでなければならない」

という完全に凝り固まった思考だった僕は

学校や社会で言うところの「常識」にとらわれてしまっていました。

そこに全くとらわれないその友人に、苛立ちもしたし

(勝手な正義感で)注意もしたし、それで喧嘩になったこともありました。

中でも僕は弱者を虐げることや、お金への扱いに関しては

余計にうるさかったように思います。


価値観は人それぞれなので、この記事を不快に思う方もいるでしょうし

僕は、別にそういった差別的な話をしたいわけではありません。

ただ、自分の勝手な価値観や常識を振り回すことが「優しい」ではないと気付いてしまったので、この記事を書こうと思いました。

特にナンパなんてそうで、声をかけた女の子に「ありがとう」と言われることがあるんですが

元々、ナンパを否定していたころは

「ナンパ」なんて悪

という勝手な常識にとらわれていたものでした。


話を戻しますと件の友人の話で

ありがちな話ながら、聞いていて昔の自分だったら「偏った正義感」で聞いていただろうなぁ

というものがありました。

彼は小学生の頃に知的障害の同級生に

給食の時間、牛乳を突然かけられたそうです。

その時にカッとなった彼は、その子を殴ったと。

そうなると、もちろん怒られるのって安易に予想つきませんか?


その友人だけがとんでもなく怒られたらしいんですね。

その一件から、そういう類の人は嫌いと彼は続けました。

世の中や社会、学校では、やはり必然的に

「弱者を守りましょう」

という風潮にあります。

それはもちろん至極当然なことだと思うし、素敵で立派な志です。

その教えを僕は、ずっとずっとずーっと30歳になるくらいまで崇高してました。

いや、もちろん殴ることを擁護するわけではないんですがね。


僕の親友の1人に、先天性の身体障害者がいます。

保育園の頃からの付き合いなので、もう随分な期間の付き合いです。

その親友は、小学生の時くらいから体育の授業なんかで別枠で組まれるようになったんですね。

「〇〇くんはできないから」

とか

「〇〇くんにやらせたら可哀想だから」

とか。

中学の時に、その親友とプロレスごっこをしてて

先生に怒られたことがあるんです。

「それはいじめじゃないのか」

これにはその親友共々、一緒に遊んでいたもう1人の友人も衝撃を受けました。

何で勝手に強い弱いを決めて、そいつの話を聞いてやらないんだ、と。

その時に聞いたんですよ。

親友に「特別扱いされてるってどんな気分?」って。

死ぬほどムカつく、って言ってました。

でも主張をしたとしても

体罰や罵声に対して今ほど神経質ではない時代だったので

僕たちの声は、きっと届くことはなかったんだと思います。


僕たちは教師のさじ加減で、正義や悪を決めさせられていたに過ぎません。

本人は、そう思ってないことを勝手に世の中が「可哀想」というイメージをつけてしまうんです。

1つの角度で「これが優しい」と思い込んでしまうと、もう他の角度が見れなくなります。

人間の脳なんて、そんなもんです。


結局は、非モテの人に言えるのって

「独りよがりの優しさのかたまり」でしかない

ってことなのかもしれません。

異性に対しても、同性に対しても。

こうするのが優しい、こうするのが正しい、こうするのが常識

とどこかで思い込んでる。

その価値観すら壊して、一歩先に進めるような人が結局はモテる。

最近よく聞くようになった、『学校教育という名の洗脳』。

本当の意味で、その洗脳を解かなければならない時代がきているのかもしれません。

今ある「当たり前」を疑って一歩踏み出す勇気を持ち続けたい。

そんな風に考えながら、結婚式の余韻に浸っているクルスでした。




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