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「金」という魔物①〜貧乏は罪〜

実家という悪夢

今から10年以上も前のことだ。

僕は実家を出ようと決めた。

理由なんて一つしかなくて

家族の呪縛から解き放たれたかった。


幼い頃から、親の言いなりだった僕は

反抗することもできずに、大人になった。

親には「反抗期はなかった」とよく言われた。

だけど、内心殺してやりたいと思うほど憎んでいたと思う。

その時は、犯罪者になりたくもないので

その親と物理的な距離さえとれば

殺意なんて芽生えない、とそう考えた。


この頃、一年ほど貯めたお金があった。

額にして50万円ほど。

外食もしない実家暮らしは、バイトでもお金がたまった。

その当時、大学を辞めたいとずっと言っていた音楽の相方が福岡にいた。

僕は熊本で、ずっとバイトをしていたからしばらく会ってなかった。

その相方は中学の時の先輩で

仲良くなってからの2年間、一緒にいることが多かった。

高校に上がってからは、ライブ活動も行っていた。


「東京に行かないか?」

その相方とは普段からメールのやりとりはしていた。

「東京に行かないか?」

僕はそう彼に聞いた。

返事を見てみると、彼はそれなりに乗り気だった。

その時の彼が言ったことはこうだった。

・大学は辞める

・ただバイトがすぐには辞めれない

・バイトを辞めるまで家に泊まってていい

・すべてが終わったら一緒に東京に行く

ということだった。

彼の部屋に遊びに行ったことはなかったが

実家を出れるなら、ということで二つ返事で承諾した。

数日後、彼の家に大きな荷物を抱えて向かった。


初めての福岡生活

初めての福岡は、本当によくわからなかった。

道が広いし、人も多い。

博多駅の前まで迎えに来てくれた彼は、

僕の大きな荷物を半分持ってくれた。

地下鉄とバスに揺られ、数十分。

一本で行けないことにもどかしさを感じた。

その日は、夜通しずっと語り合っていた。

彼はベッド、僕は下で雑魚寝する形で。

その時が永遠に続けばいい、そう思うほど。

これを書いている今でも、あの時を超える楽しい時間はないと思う。


何も変わらない生活

僕が福岡に来て1ヶ月は経っていた。

いつでも東京に行けるように、いつも家で彼のバイトの帰りを待った。

彼が休みの日は、二人で自転車の二人乗りで遠出して

基本的に外食で済ませる彼に合わせてご飯を食べていると

食費はかかってしまうものだった。

今でこそできる料理も、その時はからっきしダメで。

当時の僕は、味噌汁すらまともに作れなかった。

さらに1ヶ月が経つ頃には、

食費と家賃の半分で、15万ほど減っていた。

いつになったら、東京に行くのだろうか。

いつになっても、バイトを辞めてくれる気配はない。


冷戦

唐突に言われた一言で、僕は冷たい水をかけられたような気がした。

『お前もそろそろ仕事探せよ』

それが何を意味するものなのか。

把握するまでに、そう時間はかからなかった。

最初から東京に行くつもりなんてなかったのだ。

もしくは冷静になって考えたら、めんどくさくなったのか。

どの道その時の僕は退去費用だったり、更新費用がかかるなんて

そんなことも知らなかったほどの無知だった。

冷戦、そう言うに相応しい戦いが始まった。

それからほとんど会話もなくなり、メールでのやりとりだけが続く。

「東京には行かないのか」

そう送るのでさえ躊躇ってしまうほどだった。

だがこのままでは、何も進まない。


決別

「東京に行かないなら、もう家を出る」

それだけ送った。

彼からの返事は『分かった』

それだけだった。

荷物をまとめて、その日の昼には家を出た。

結局、彼には持って帰れなかった荷物を送ってもらって

それからゆっくりと疎遠になった。

彼が悪いとかじゃない、ただ僕は前に進みたかった。

ただその時の僕には、彼を理解する余裕も

彼を理解する知識も

彼を許す術も知らなかった。

あまりにも青すぎた。


東京へ

東京へ行くのには、夜行バスを使った。

体は痛くなったが、それより何より感動が上回った。

やはり東京は広かった。

新宿駅西口に降り立った。

何もない。

知り合いもいない、知識もない。

それでも。

恐怖より、ワクワクが勝った。

その時見た「京王線」という文字がかっこよくて

そこの路線で家を探したいと思った。


家探し

ネットで探して一番上に出てきた不動産屋に電話をかける。

この時はただ、東京に住まいを作ることで

東京人になれる気がすると思っていた。

早く、早く。

電話をかけて、予約を取り付けたら

もう不動産屋に向かって駆け出していた。

少し大変だったのは、時間がかかることだった。

熊本から単身で来て、さらには住民票を持ってきてるわけでもない。

何もない状態で部屋をすぐに借りれるわけではなかった。

実家と不動産屋の契約書のやりとりで

鍵を手に入れられるのは2週間後になった。

2週間、どこかで生活をしなければならない。


ネカフェ難民生活

この当時、ネカフェ難民という言葉が流行っていた。

テレビで眺めていて、自分がそうなるとは思わなかった。

キャリーケース一つで一日中、新宿を徘徊し

夜になれば同じネカフェに泊まる。

店員にはただの家出少年に見えていたのかもしれない。

正直、ここで折れることもあったかもしれない。

だが少し先には、一人暮らしが待っている。

それだけで、12月の寒さにも耐えれた。

一番長いパックは10時間で、シャワーや乾かす時間を入れたら

少し物足りない時間だった。

夜が寒いからといって、早めにネカフェに入れば

出て行かなければならない時間も早くなる。

朝の5時に外に出たときは、身が凍るかと思った。


入居、そして

ついに鍵が手に入った。

部屋は寒かった。

エアコンは付いていたが、つけてばかりいたら

電気代がいくらになるか分からない。

今と違ってTwitterもないから、

情報もない、友達もいない。

それでもよかった。

孤独も、寒さも

今、東京に住んでいる

その事実だけが全てをかすませた。

布団を買うお金も怖かった。

だから電気カーペットを買って、

その上にダウンジャケットをかぶって寝た。

今でもよくそんな生活ができたな、と思う。


派遣のバイト

引越しのバイトに派遣で入った。

すぐにお金が欲しかった。

指定の場所に行くと、30分遅れで業者がやってきた。

お世辞にもいい人たちとは言えなかった。

口調も荒ければ、態度も悪い。

重いものも大量に任されるし、

今思い返せば豪邸で、荷物も多かった。

救いというか、そこの家の娘さんが可愛かったこと。

かなりの美少女だった。

もう顔は覚えてない。

昼休みに、蕎麦を食べに行くからと誘われた。

そこでの昼食の時に、一人から

「何で定職につかないの?(笑)」と聞かれた。

ニヤニヤしていたし、少し腹が立った。

一人で上京してきたことを伝えても

ふーん、というから返事のみで会話は終わった。

残業できるか聞かれて、断った。

居心地が悪かった。

帰りにお金を受け取った時、ほんの少しだけ

何やってるんだろ、なんて思った。

次の日から全身筋肉痛で、3日ほど動けなかった。


餓死寸前

それからすぐに探したバイトで、

給料日の1週間前に全財産が26円になった。

手元にあるのは、ひと握りくらいの炊く前の米くらい。

案の定友達も出来てなかった。

他人に頼ってはいけない、ずっと思い込んでいた。

これが一人で生きていくということ。

そう言い聞かせた。

その日の帰り、ドラッグストアのタイムセールで

もやしが半額の19円になっていた。

食べるものがあったことを、ひたすら喜んだ。

だが家に着いて冷静に考えると、もうお金はない。

このもやしが、僕の生命線だった。


決死の奇策

家に冷蔵庫は、ない。

幸い季節は冬で、寒すぎるくらい寒い。

決めた。

もやしの袋を4等分にする。

そしてそれを袋に入れて、外の物干し竿に吊るす。

その部屋は日当たりが悪かったが、それが功を奏した。

2日に一回だけ、もやしが食べれた。

少しずつだが。

それでも、まだマシだ。

後半のもやしは、もうほとんど乾ききっていて

普通に食べれたものじゃなかったけど

多分もう腐ってたんだろうけど。

塩と胡椒で誤魔化した。

仕事中、倒れるかと思った。

でも、それで生き延びれた。

今生きてるのが、その何よりの証明だ。


おわりと、はじまり

そんなスタートを切った東京生活だったけど、

2年ほどで帰郷することになる。

ただ、とにかくお金がないことは心底辛い。

あの頃は誰にも頼っちゃいけない、という気持ちに縛られていた。

無知は罪だと知ったし、お金が死ぬほど大事なのは分かったつもりだった。

なぜこんな記事を書いたかというと

今まさにお金がないこと。

それと好きなことで生きていくためには、

好きなことだけしてていいわけではないこと。

そしてそのための覚悟を決めなければならないことに気づいたから。


なっちさんのブログの記事は特にそう思わせてくれた。

まだまだ甘えてしまっているんだ。

だから、今はここに記事を残す。

今の僕にできることの一つだ。

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