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見ることは祈ることとは違うけれど漕ぎつつ二秒見ている祠 大松達知『ばんじろう』

徒歩のとき、自転車のとき、車、電車・・・、速度によって目に留まる景色が違う。速いほど遠くの景色が見やすくなる。そう考えたとき、自転車は何かがちょうどいい。視界におさまる景と距離がほどよいのかもしれない。

この歌は自転車で通り過ぎるときに祠を見ている。「二秒」が絶妙な長さで、目に入っただけでなく、明らかに意思をもって見ている。徒歩だと通り過ぎる間見ていたらそこそこ長くなるので、見ることに対する意味付けが必要になるし、もっと速い車だと一瞬だろう。
「見ることは祈ることとは違うけれど」と言いつつも、やはりそこには単なる「見る」以上の気持ちがある。そして視界に入る風景はまた変わって、祠を見た余韻だけが残る。

いまわれは遮光器土偶こいつらのために怒れる遮光器土偶
一本締めせんとひろげた手のひらの左が問いで右もやはり問い

こういう歌が面白い。遮光器土偶のあの表情の無さ。(青森の木造駅の土偶みたく目が光っていそう。)二首目の、さあこの会を締めようというところで、何も解決されてないというところ。手にはどちらも問いが残っていて、このどうしようもなさが案外本当のところのような。そして互いに問いを照らし合うような。

ちちははのどちらかに似ているという前提ありぬだまって聞けり
こう見えて蕪村を読めりてのひらにてのひらほどの光を乗せて
保湿剤(ヒルドイド)おまえにやると差し出されわれはいまでも守られる側
あすのぼくからの元気を借りてきてもう一杯のワイルドターキー
ひとりひとりレジに寄りゆき告解のごとしよ朝のセブン-イレブン
結婚ののちアトピーは詩のように軽くなりたり母には言わず

言わずに心にとどめておいたことを歌のなかではひらいている。
朝のコンビニの景に遭遇するたび、告解のうたを思い出すだろうなあ。


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