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稀有の智将 細川藤孝

 戦国乱世を生き抜いた、しかも5つの
政権〜室町幕府十三代将軍・足利義輝、
同十五代将軍・義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、仕えた誰からも尊敬の念を持たれた、稀有の人物に、
細川藤孝(号して幽斎)がいる。
 父は室町幕府三代将軍・義満から分流した和泉国の松崎城主で幕臣・三淵家の
当主であった大和守晴員(はるかず)である。
 幼少期を母の実家・少納言清原宣賢のもとで養われたことが、細川家の命運を
決定づけた。
 清原家は、学問を司る家柄としてしられ、藤孝の祖父宣賢も、碩儒として世に知られていた。藤孝はもの心のつく頃から、この著名な学者の手ほどきを受け、
時代を超越した教養人として、第一歩をしるしていた。
 しかし、藤孝は生まれながらの武家であり、弓馬術、剣術を懸命に修行していた。
 はじめは、将軍・義輝の取次役を仰せつかり、常にこの二歳年少の将軍の側にあった。
 しかし、一大事変がおこった。
 松永久秀、三好一族によって、将軍義輝が殺されたのである。これはあり得るべきことではなく、下剋上だった。
 藤孝は、弔い合戦も主君も見捨てず、
将軍義輝の弟で、奈良・興福寺の一乗院門跡であった覚慶を還俗させて、
擁立した。足利義昭である。
 流浪を重ね、越前の朝倉義景のもとから、
織田信長を頼るなかで実力者の庇護の下、将軍としての権威は保ちたいと考えていたが、あろうことか信長打倒を
企んだ。義昭に殉じるか、信長に密告さるか、が方法としてあったが、藤孝は
居城に引き籠もった。それに先立って、
越前で知り合った軍司令官に出世した、明智光秀にことの次第を打ち明けた。
 こうした出所進退は、信長のそして世間の印象は悪くなかった。
 藤孝は単なる保身の人てはなく、陰徳(人知れず、ほどこす善行)を積むひとであった。旧主義昭が信長に歯向かって挙兵したものの、ついに降参すると、
藤孝は今度は助命嘆願に奔走している。
しかも藤孝は人知れず、僧籍に入れた義昭の嫡子・義尋を後見し、のちに興福寺大乗院の法嗣とも成していた。
 なかなかそこまで、できる人はいない。
 次なる試練、本能寺の変である。
藤孝は、光秀の娘・玉(ガラシャ夫人)
を嫡子忠興に迎えていた。
 この死地をどう切り抜けたか。
忠興に髻を切らせ、自らは頭髪を剃り、
仏門に入り、信長公の弔いに専念したいというデモンストレーションをした。
 
 関ヶ原の戦いでは、徳川家康の勝利を
確信する幽斎(藤孝)は、忠興にほとんどの軍勢を預け、自身はわずか300人の老兵などで丹後田辺城に籠城。
 そこへ、石田三成方の15000が襲った。7月に始まった城攻めは、8月にはいっても、落城の気配を見せない。
 これは、幽斎が、学問、芸事なとや、厳粛な宮廷儀式や行事を身に着けていたため、朝廷は、幽斎を救おうと、
調停役を買って出たからである。
 もしも、彼を失うことになれば、
幽斎が身につけた古今伝授を含め、幾多の学問の成果、伝統芸術が灰燼に帰すことになる。
 田辺城は、後陽成天皇からの勅使差遣によって開城され、幽斎は帝のご存念という大義名分を得て、西軍に捕らえられることもなく、堂々と城を出た。

 幽斎=藤孝は、常に時代の趨勢を
的確に読み、次代の指導者を見誤らず、媚びることもなく、乱世を生き抜いた。

 一代の智者は七十七歳で世を去った。

 細川家は、子々孫々も繁栄しづけている。

今回、長くなってすいません。

この記事は、尊敬する作家の加来耕三先生の著作の抜粋です。

ありがとうございました。

  
  

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