鉄太郎の家は、世々幕府に仕えて、 禄600石。 鉄太郎、12、3歳の頃、剣道の諸大家の門を歴遊し、浅利又七郎に逢って、 親しく其教えを受けた。 浅利又七郎、伊藤一刀斎の流を汲んで、すこぶる剣技に達していた。殊にその突きの術は精妙正に神技とも称すべきもので、常勝将軍の概があった。 鉄太郎、其門に入りて練磨刻苦、 例えば、鉄太郎、黙視多時、竹刀を擁して自ら眠りにつく頃を窺って、師は俄に突撃してこれを撃つ。鉄太郎跳ね起きて、竹刀声あり、これに応じた。 師、その胆勇努力を
世にも、不思議な大名がいた。 鎌倉以来、安芸一国(現・広島県西部)に号令してきた守護大名・武田氏の直流に生まれ、下剋上の風波を受けて、 お家騒動の最中を毛利元就に付け入られ、ついに実家は滅亡。四歳の遺児となったその子は、家臣にともなわれて安芸安国寺(現・広島市東区)に逃げのびた。青年僧として、成長し、臨済宗の五本山の一・東福寺(現・京都市東山区)の名僧の竺雲恵信の弟子となった。 師の一字を得て、諱を恵瓊(えけい) と称す。彼は京に上って学問を積み、中央の五山禅林との人
江戸時代は近・銀・銅を使った、三貨幣制度であった。ややこしいのが、、地域によって異なること。 名古屋と金沢を結んだ線より東側の東日本は、金の貨幣を使用していた。いわゆる「金遣い」。 一方、西日本は、「銀遣い」で、銀の貨幣が流通していました。 なぜ、東西で違うのか? 東日本はの金遣いは、佐渡や伊豆、伊達政宗のいた陸奥の金、武田信玄の甲州金などに代表されるように、東日本には金を産出する金山が多かった。 そして、江戸幕府を開いた徳川家康が 武田信玄の甲州金の貨幣制度を
大政奉還、王政復古の大号令を経て、 徳川慶喜が、江戸城を新政府に差し出した、明治元年。 上野の山、上野東叡山に籠もって、解散の説諭に応じず、通行の官軍を暴殺し、軍用品を奪うなど、傍若無人の輩がいた。彰義隊である。 朝廷、ここに至って、大村益次郎を 軍防事務局判事として、東下させ、 彰義隊に処することになった。 軍議の結果、益次郎のたてた彰義隊討伐の軍配は、上野黒門口を薩摩藩に 攻撃せしめ、横合の根津方面は、因幡藩、長州藩、本郷の加賀邸には、肥前藩の、アームストロング砲
大村益次郎は、日本陸軍の祖である。 この人を知る人は多くはない。 益次郎は、江戸時代末期に長州で村医の子として産まれた。 はじめ、漢学を学び、その後、大坂の 緒方洪庵の適塾に学ぶ。それから、当時の新知識の供給所であった長崎で学んだ。 27歳にして、適塾を辞して、郷里に 帰り、医業を開いた。しかし、全く 流行らず、西洋の学問を基礎として、 兵学をしようとした。 大村益次郎の、人を医すの医より、国を医すの医に移った転機である。 その後、宇和島藩雇となり、兵学の研
織田信長は、中世の破壊者といわれる。 信長は、尾張、美濃、近江へと領土を 広げていくなかで、伊勢湾、琵琶湖などの海運から得られる、経済力で、将軍・足利義昭を擁し上洛を果たし、室町幕府を再興し、朝廷を建て直していく。 はじめは、朝廷は信長の力で御所などを再建されたことを喜び、信長をたたえていたのだが、信長の力が全国規模に波及する中で、足利義昭の策略による、信長包囲網が形成された時も、ピンチでどういう手も打てない時に、言葉が悪いが、和睦に朝廷の権力を利用して、危機を回避する
戦国乱世を生き抜いた、しかも5つの 政権〜室町幕府十三代将軍・足利義輝、 同十五代将軍・義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、仕えた誰からも尊敬の念を持たれた、稀有の人物に、 細川藤孝(号して幽斎)がいる。 父は室町幕府三代将軍・義満から分流した和泉国の松崎城主で幕臣・三淵家の 当主であった大和守晴員(はるかず)である。 幼少期を母の実家・少納言清原宣賢のもとで養われたことが、細川家の命運を 決定づけた。 清原家は、学問を司る家柄としてしられ、藤孝の祖父宣賢も、碩
明治新政府の大久保利通。 まず、明治政府は、天皇の下に、 日本国というものを作っていくことを、 目指した。 具体的にいえば、庶民に自分は、 国民なんだぞ という意識を植え付けたかった。 そのため、江戸時代まで、威張っていた武士というものを見直していった。 江戸時代まで、藩 という小さな国が 割拠していた。その藩の藩主に、藩の土地と人民を朝廷に返しますという、版籍奉還をさせた。これは、スムーズに進んだ。今までの藩主に、知藩事というものに任命した。 次に明治政府は
大久保利通は、薩摩国に生まれた。 西郷隆盛は、三歳年上だが、幼少の頃から極めて親しい間柄だった。 幼少時代の大久保は、学問は優秀だが、武芸は得意ではなかった。 大久保も薩摩独特の、郷中教育(年長者が年下のものを指導していくもの) を受け、精忠組(西郷を中心とした急進派若手グループ)の影響下にあり、 西郷らと切磋琢磨していた。 だが、父の大久保利世が、疑獄に連座して島流しとなったことで、二十歳の利通も失職し、極貧生活になり、10年の 空白ができる。 その後、復職し、大
豊臣秀吉は、農民の子から、天下の兵馬を束ねる、最高権利者になった。 その総仕上げは、北条氏政・氏直父子が、擁する小田原城攻めであった。 この小田原城、あの上杉謙信・武田信玄も落とせなかった、天下の堅城であった。 あの謙信、信玄が落とせなかったのだから、上方の猿が、なにする者ぞと思っていた節がある。そう思っても仕方がないかも知れない。 しかし、豊臣秀吉は、全国の兵をこぞって、北条氏打倒に向けて動いた。 陸からは、20数万の軍勢を向かわせ、掌握している水軍で、
松下村塾。 いわずと知れた、幕末の吉田松陰が叔父から 受け継いだ、寺小屋みたいなもの。 その塾から、幕末、明治にかけて、 走り抜けた、志士や政治家や総理大臣まで、輩出した。 とにかく、松陰先生は、人の良い所を 見つけて、褒めるのが、うまかったらしい。 吉田松陰自体が、電流を体に帯びた人で、ペリーが、浦賀に来た時、 弟子の金子重輔と、アメリカに渡ろうとした。だが、ペリーに追いかいされ、 幕府に捕まった経歴をもつ。 そのほとばしる行動力が、長州藩の 萩の一角の
戦国武将・立花宗茂の勝率は十割、 生涯無敗であった。 秀吉の朝鮮出兵の、文禄の役一一碧蹄館の戦いでは、李如松ひきいる明・朝鮮連合軍十五万余に対して、三千の兵をもって日本軍の先陣を切り、大勝をあげていた。 同じ文禄の役〜晋州城の戦いでは、 十万と号する大軍(実数四万八千)を 自ら反撃の先鋒をつとめ、五百人近い犠牲を出しつつも、明の大軍を打ち破っている。 関ヶ原の戦いでも、西軍に属しながら 宗茂は、自ら担当した東軍方の大津城を 開城した。 ところが、味方が東軍に関ヶ原で
日本に帰る決意をした、万次郎。 1851年に薩摩藩領だった琉球に上陸。 番所などで半年間、尋問を受け、 薩摩本土に送られた。 万次郎は、薩摩藩でも厚遇された。 藩主 島津斉彬が、みずから万次郎に海外の情勢や文化を質問し、斉彬の要請に 応じて、藩士や船大工らに洋式の造船術 や航海術を教えている。 薩摩藩での取り調べののち、長崎奉行所で、長期尋問を受け、土佐藩に帰る。 2ヶ月間、取り調べを受け、その際、 聞き取りに当たった絵師の河田小龍が、 万次郎の話を記録し、のちに、
土佐の漁師、ジョン万次郎は、江戸時代の1841年、足摺岬の沖合で、操業中、 強風で、数日間、漂流し、伊豆諸島にある無人島に漂着した。 そこに、ホイットフィールド船長が、 率いるアメリカの捕鯨船が、やってきて、143日ぶりに、救出された。 救助されたが、当時の日本は、 鎖国しており、外国の船は、容易に近づけなかった。ホイットフィールドは、 マサチューセッツ州に帰港して、万次郎も連れて行った。 万次郎は、ホイットフィールドの養子となり、現地の学校で、英語、数学、 測量、航
スマホを機種変更するかも、しれないので、今週の投稿を、午前中にします。 私は、司馬遼太郎さんの小説で育ってきたようなものです。 自分の歴史観は、司馬さんの歴史観を骨組みとしている。 司馬さんは、徳川家康については、 徳川家を自家保存するために、あらゆる手を打ってきたと、書いてある。 大名の取り潰しなども、その一環であった。 でも、司馬さんの小説から卒業して、 長く、他の人の著作などを、読んできたなかで、徳川家康の人生を見てくると、、家康は、戦国時代という戦乱の
今日、熱があるので、寝込んています。 コラムは、お休みです。 来週、ご期待下さい、