樋熊克彦

趣味は、歴史、特に満洲を研究しています。あと、戦国と幕末が好き。  エッセイを書いてい…

樋熊克彦

趣味は、歴史、特に満洲を研究しています。あと、戦国と幕末が好き。  エッセイを書いています。 英語・中国語を勉強中。 陶芸は、始めて1年。 クラシック、特にピアノ、ヴァイオリンが好き。JAZZ、J-POPも好き。

最近の記事

晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ①

 鉄太郎の家は、世々幕府に仕えて、  禄600石。  鉄太郎、12、3歳の頃、剣道の諸大家の門を歴遊し、浅利又七郎に逢って、 親しく其教えを受けた。  浅利又七郎、伊藤一刀斎の流を汲んで、すこぶる剣技に達していた。殊にその突きの術は精妙正に神技とも称すべきもので、常勝将軍の概があった。  鉄太郎、其門に入りて練磨刻苦、 例えば、鉄太郎、黙視多時、竹刀を擁して自ら眠りにつく頃を窺って、師は俄に突撃してこれを撃つ。鉄太郎跳ね起きて、竹刀声あり、これに応じた。  師、その胆勇努力を

    • 毛利家の外交僧 安国寺恵瓊      

       世にも、不思議な大名がいた。  鎌倉以来、安芸一国(現・広島県西部)に号令してきた守護大名・武田氏の直流に生まれ、下剋上の風波を受けて、 お家騒動の最中を毛利元就に付け入られ、ついに実家は滅亡。四歳の遺児となったその子は、家臣にともなわれて安芸安国寺(現・広島市東区)に逃げのびた。青年僧として、成長し、臨済宗の五本山の一・東福寺(現・京都市東山区)の名僧の竺雲恵信の弟子となった。  師の一字を得て、諱を恵瓊(えけい) と称す。彼は京に上って学問を積み、中央の五山禅林との人

      •  戦国・江戸時代のお金の歴史

         江戸時代は近・銀・銅を使った、三貨幣制度であった。ややこしいのが、、地域によって異なること。   名古屋と金沢を結んだ線より東側の東日本は、金の貨幣を使用していた。いわゆる「金遣い」。  一方、西日本は、「銀遣い」で、銀の貨幣が流通していました。  なぜ、東西で違うのか?  東日本はの金遣いは、佐渡や伊豆、伊達政宗のいた陸奥の金、武田信玄の甲州金などに代表されるように、東日本には金を産出する金山が多かった。  そして、江戸幕府を開いた徳川家康が 武田信玄の甲州金の貨幣制度を

        •  智謀の人 大村益次郎 ②

           大政奉還、王政復古の大号令を経て、 徳川慶喜が、江戸城を新政府に差し出した、明治元年。  上野の山、上野東叡山に籠もって、解散の説諭に応じず、通行の官軍を暴殺し、軍用品を奪うなど、傍若無人の輩がいた。彰義隊である。  朝廷、ここに至って、大村益次郎を 軍防事務局判事として、東下させ、 彰義隊に処することになった。  軍議の結果、益次郎のたてた彰義隊討伐の軍配は、上野黒門口を薩摩藩に 攻撃せしめ、横合の根津方面は、因幡藩、長州藩、本郷の加賀邸には、肥前藩の、アームストロング砲

        晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ①

           智謀の人 大村益次郎 ①

           大村益次郎は、日本陸軍の祖である。 この人を知る人は多くはない。  益次郎は、江戸時代末期に長州で村医の子として産まれた。  はじめ、漢学を学び、その後、大坂の 緒方洪庵の適塾に学ぶ。それから、当時の新知識の供給所であった長崎で学んだ。    27歳にして、適塾を辞して、郷里に 帰り、医業を開いた。しかし、全く 流行らず、西洋の学問を基礎として、 兵学をしようとした。  大村益次郎の、人を医すの医より、国を医すの医に移った転機である。  その後、宇和島藩雇となり、兵学の研

           智謀の人 大村益次郎 ①

           信長権力と朝廷

           織田信長は、中世の破壊者といわれる。  信長は、尾張、美濃、近江へと領土を 広げていくなかで、伊勢湾、琵琶湖などの海運から得られる、経済力で、将軍・足利義昭を擁し上洛を果たし、室町幕府を再興し、朝廷を建て直していく。  はじめは、朝廷は信長の力で御所などを再建されたことを喜び、信長をたたえていたのだが、信長の力が全国規模に波及する中で、足利義昭の策略による、信長包囲網が形成された時も、ピンチでどういう手も打てない時に、言葉が悪いが、和睦に朝廷の権力を利用して、危機を回避する

           信長権力と朝廷

          稀有の智将 細川藤孝

           戦国乱世を生き抜いた、しかも5つの 政権〜室町幕府十三代将軍・足利義輝、 同十五代将軍・義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、仕えた誰からも尊敬の念を持たれた、稀有の人物に、 細川藤孝(号して幽斎)がいる。  父は室町幕府三代将軍・義満から分流した和泉国の松崎城主で幕臣・三淵家の 当主であった大和守晴員(はるかず)である。  幼少期を母の実家・少納言清原宣賢のもとで養われたことが、細川家の命運を 決定づけた。  清原家は、学問を司る家柄としてしられ、藤孝の祖父宣賢も、碩

          稀有の智将 細川藤孝

           大久保利通 ②

           明治新政府の大久保利通。  まず、明治政府は、天皇の下に、 日本国というものを作っていくことを、 目指した。  具体的にいえば、庶民に自分は、 国民なんだぞ という意識を植え付けたかった。  そのため、江戸時代まで、威張っていた武士というものを見直していった。  江戸時代まで、藩 という小さな国が 割拠していた。その藩の藩主に、藩の土地と人民を朝廷に返しますという、版籍奉還をさせた。これは、スムーズに進んだ。今までの藩主に、知藩事というものに任命した。  次に明治政府は

           大久保利通 ②

           大久保利通 ①

           大久保利通は、薩摩国に生まれた。 西郷隆盛は、三歳年上だが、幼少の頃から極めて親しい間柄だった。  幼少時代の大久保は、学問は優秀だが、武芸は得意ではなかった。  大久保も薩摩独特の、郷中教育(年長者が年下のものを指導していくもの) を受け、精忠組(西郷を中心とした急進派若手グループ)の影響下にあり、 西郷らと切磋琢磨していた。  だが、父の大久保利世が、疑獄に連座して島流しとなったことで、二十歳の利通も失職し、極貧生活になり、10年の 空白ができる。  その後、復職し、大

           大久保利通 ①

          秀吉の小田原城攻め

           豊臣秀吉は、農民の子から、天下の兵馬を束ねる、最高権利者になった。  その総仕上げは、北条氏政・氏直父子が、擁する小田原城攻めであった。    この小田原城、あの上杉謙信・武田信玄も落とせなかった、天下の堅城であった。  あの謙信、信玄が落とせなかったのだから、上方の猿が、なにする者ぞと思っていた節がある。そう思っても仕方がないかも知れない。  しかし、豊臣秀吉は、全国の兵をこぞって、北条氏打倒に向けて動いた。  陸からは、20数万の軍勢を向かわせ、掌握している水軍で、

          秀吉の小田原城攻め

          電流の如き人 吉田松陰

           松下村塾。  いわずと知れた、幕末の吉田松陰が叔父から 受け継いだ、寺小屋みたいなもの。  その塾から、幕末、明治にかけて、 走り抜けた、志士や政治家や総理大臣まで、輩出した。    とにかく、松陰先生は、人の良い所を 見つけて、褒めるのが、うまかったらしい。  吉田松陰自体が、電流を体に帯びた人で、ペリーが、浦賀に来た時、 弟子の金子重輔と、アメリカに渡ろうとした。だが、ペリーに追いかいされ、 幕府に捕まった経歴をもつ。  そのほとばしる行動力が、長州藩の 萩の一角の

          電流の如き人 吉田松陰

          立花宗茂 生涯無敗の男

           戦国武将・立花宗茂の勝率は十割、  生涯無敗であった。 秀吉の朝鮮出兵の、文禄の役一一碧蹄館の戦いでは、李如松ひきいる明・朝鮮連合軍十五万余に対して、三千の兵をもって日本軍の先陣を切り、大勝をあげていた。  同じ文禄の役〜晋州城の戦いでは、 十万と号する大軍(実数四万八千)を 自ら反撃の先鋒をつとめ、五百人近い犠牲を出しつつも、明の大軍を打ち破っている。  関ヶ原の戦いでも、西軍に属しながら 宗茂は、自ら担当した東軍方の大津城を 開城した。  ところが、味方が東軍に関ヶ原で

          立花宗茂 生涯無敗の男

           ジョン万次郎 ②

           日本に帰る決意をした、万次郎。 1851年に薩摩藩領だった琉球に上陸。 番所などで半年間、尋問を受け、 薩摩本土に送られた。  万次郎は、薩摩藩でも厚遇された。 藩主 島津斉彬が、みずから万次郎に海外の情勢や文化を質問し、斉彬の要請に 応じて、藩士や船大工らに洋式の造船術 や航海術を教えている。  薩摩藩での取り調べののち、長崎奉行所で、長期尋問を受け、土佐藩に帰る。  2ヶ月間、取り調べを受け、その際、 聞き取りに当たった絵師の河田小龍が、 万次郎の話を記録し、のちに、

           ジョン万次郎 ②

           ジョン万次郎 ①

           土佐の漁師、ジョン万次郎は、江戸時代の1841年、足摺岬の沖合で、操業中、 強風で、数日間、漂流し、伊豆諸島にある無人島に漂着した。  そこに、ホイットフィールド船長が、 率いるアメリカの捕鯨船が、やってきて、143日ぶりに、救出された。  救助されたが、当時の日本は、 鎖国しており、外国の船は、容易に近づけなかった。ホイットフィールドは、 マサチューセッツ州に帰港して、万次郎も連れて行った。  万次郎は、ホイットフィールドの養子となり、現地の学校で、英語、数学、 測量、航

           ジョン万次郎 ①

           稀有な人 徳川家康

           スマホを機種変更するかも、しれないので、今週の投稿を、午前中にします。  私は、司馬遼太郎さんの小説で育ってきたようなものです。  自分の歴史観は、司馬さんの歴史観を骨組みとしている。  司馬さんは、徳川家康については、 徳川家を自家保存するために、あらゆる手を打ってきたと、書いてある。  大名の取り潰しなども、その一環であった。  でも、司馬さんの小説から卒業して、 長く、他の人の著作などを、読んできたなかで、徳川家康の人生を見てくると、、家康は、戦国時代という戦乱の

           稀有な人 徳川家康

          熱があるので、休みます。

           今日、熱があるので、寝込んています。  コラムは、お休みです。 来週、ご期待下さい、

          熱があるので、休みます。