織田信長の革新性
織田信長の革新性は、どこから来ているのであろうか?
まだ、信長が家督を継ぐ前の、うつけ
と呼ばれる時代に、信長の父、織田信秀が、支配していた、津島、熱田といった港でフラフラしている時に、交易が、莫大な富をもたらすことや、貿易している人々と接しているうちに、海のむこうには、異人が交易をしていることを、
聞いていたのでは、ないだろうか?
信長は、征服する土地を狙っているのは、交易が盛んな場所に限られている。
堺や草津、大津など、を支配し、
越前の朝倉氏を滅ぼしたのも、朝倉氏が、支配していた、日本海交易の重要拠点、敦賀を押さえるためだし、一向宗が、押さえていた、伊勢湾の、長島や、摂津を支配したいがため、一向宗と血みどろの戦をした。
信長が、本能寺の変で死ななかったなら、天下統一のあと、海軍を創設し、
中国の香港や、寧波を押さえて、世界と
貿易していたのでは、ないだろうか?
ある作家が書いているが、信長は、
世界と貿易をしたいために、日本統一をしたかったのでは、ないかと。
これは、時代が下るが、坂本龍馬が、
世界と貿易をしたいため、日本国内を
統一させようとしたのに、似ている。
この信長の姿勢は、閉塞感、漂う現在のカンフル剤として、改めて、見直される人生では、ないだろうか?
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