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 智謀の人 大村益次郎 ①


 大村益次郎は、日本陸軍の祖である。
この人を知る人は多くはない。

 益次郎は、江戸時代末期に長州で村医の子として産まれた。
 はじめ、漢学を学び、その後、大坂の
緒方洪庵の適塾に学ぶ。それから、当時の新知識の供給所であった長崎で学んだ。
 
 27歳にして、適塾を辞して、郷里に
帰り、医業を開いた。しかし、全く
流行らず、西洋の学問を基礎として、
兵学をしようとした。
 大村益次郎の、人を医すの医より、国を医すの医に移った転機である。
 その後、宇和島藩雇となり、兵学の研究・教育に精をだし、のち、宇和島藩士
として、幕府の講武所・蕃書調所に
 出仕した。

 その後、特に長州藩の桂小五郎に請われて、長州藩での兵学教授、兵書翻訳、兵備の研究を行なっていた。
 慶応二年、幕府の第二次征長が行われた。四境戦争である。
 益次郎は、石見口の長州兵の参謀になって敵軍を壊滅した。
 その四境戦争の益次郎。

  敵陣地の前に横田川があった。橋がない。近くの農夫に、10両をわたし、舟を出させ、川を往復し作戦を練った。
 翌日、長州軍出発。また、水辺にきて、橋がないため、躊躇する時、
益次郎、厳然大呼して、「大隊飛び込め」と命ずる。兵士等はその無謀な命令に憤慨して、敢然川の中に踊り入り、水を蹴って、岸に上がり、敵軍に殺到して、飽く迄突撃した。闘いに勝ち取りて、再び歩を還す時に、横田川には、何時の間にか船橋がかけてあって、堂々帰来した。
 往きに橋なく、還りに却って橋があるのは、その理由はと問われると、
益次郎、ニッコリ笑って曰く、敵前に進む者は憤りを発するくらいの元気がなければダメだ、但し帰りには気がゆるんで水中に飛び込めまい、夏のことだ、水にはいっても涼しかろうと。

 幕府に攻められた長州藩。指揮を取った大村益次郎の、万事、その調子で、
幕府軍に大勝する。

 益次郎、智謀優れたるを最も有力に物語るのは、明治元年、東叡山彰義隊討滅の事実である。

 彰義隊討滅 は、来週、智謀の人 大村益次郎 ②にて。


 


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