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神のような孤独な魂ーー石原慎太郎『やや暴力的に』評


僕は以前ツイッターで、「石原慎太郎は政治家としても人間としても最低最悪だが、作家としては神。もしくはそれ以上。」と書いて顰蹙を買ったことがある。後悔はないし、その考えが揺らいだことはない。

どれだけ慎太郎の影響を受けてきたかわからない。拙著『ルック・バック・イン・アンガー』の文体は『太陽の季節』『灰色の教室』からだし、『民宿雪国』に出てくる海の風景は『風についての記憶』から大いにパクらせてもらった。それ以外の著作の巻末にも何度なとなく謝辞を揚げてきた。

どうしてここまで心酔しているのか、分析は一応済んでいる。有り体な言い方をすれば、慎太郎の小説は「崇高なる自我の肯定」だ。「神のような孤独な魂」と言ってもいい。そこに自己を投影しているのだと思う。

今さら言うまでもなく、世の中には社会常識や道徳があり、幼い頃から良識を刷り込まれて育つ。しかし北野武監督作品の『ソナチネ』のように人をバンバン撃ち殺したいし、『十階のモスキート』の内田裕也のように女を犯し、強盗をしてみたい。『タクシードライバー』のトラヴィスのように、女に振られた腹癒せに政治家を暗殺してみたい。しかしどうやらダメらしいので、小説やマンガや音楽や絵や映画の中でむちゃくちゃなことをやってみる。物語の作り手に許された特権なので。

話を戻そう。ここ数年、「文學界」で不定期に掲載される慎太郎の短編が待ち遠しく、すべて楽しく読んでは友人知人に、唇に興奮を乗せて語ってきた。

慎太郎ほど理不尽な暴力と死を描き続けてきた作家はいない。本作の中でも「夢々々」は黒澤明の『夢』を彷彿とさせるが、主題は無慈悲な死に彩られている。「青木ヶ原」も同様。

表題作「やや暴力的」の主人公はそれぞれ外科医、政治の黒幕、キックボクシングのコミッショナー(挿話に猪木vsホーガンの裏話が! 現在、慎太郎と猪木が同じ政党にいると思うと興味深い)、若き空手家、遭難者というオムニバスで、中でも「計画」の章は圧巻だ。研ぎ澄まされた狂気に胸が空く。

「うちのひい祖父さん」にいたっては慎太郎の人生観、というより遺言と見て取れる。

「世の中おかしいよ」は池袋署勤務の警部補が一人称で語る形式で、巷に横行する犯罪、特に中国人による悪事を書き連ねる。ここまでは従来の慎太郎節だが、驚くのはこの先。

「しかもこの国で今薬を横行させている組織の者の多くが、戦争の後向こうに置き去りにされたままのいわゆる残留孤児の子弟だそうな。彼等の実質の国籍が今どこにあるのかはわかりませんが、彼等が親たちの母国でそんな仕事をしているというのは何とも皮肉な話です。我々は昔の戦争のつけを今頃払っているということでしょうか。」

 どうした慎太郎! 侵略戦争の懺悔か! 

「僕らは仲が良かった」はさらに可笑しい。老年の主人公が戦後の学生時代を振り返るが、そこで描かれるのは倹しい貧乏生活。おいおい、太陽族は戦後初の「飽食の世代」ではなかったのか。無銭旅行先で、女を買う話になると、友人が険のある物言いで返す。

「「俺は将来結婚するかも知れない相手のためにも、今そんなことは絶対に出来ない。そんなことなら駅のベンチで一人で寝る」と」(中略)
「しかし当時の寮生は性に関しては概して純情というよりも幼稚なものだった。」


これが六十年前の大出世作、『太陽の季節』で、ヤッた女の数を競い、夏になれば処女撲滅運動を興したと書き飛ばした男だろうか。『完全な遊戯』で精神に障害のある女性を拉致監禁し、輪姦の果てに殺害する問題作を世に送り出した書き手だろうか。

果たしてこれは最晩年の告解か? 遅すぎる転向か? 

いや違うのだ。これは慎太郎にとっての『許されざる者』なのだ。

大根役者のレッテルを貼られた若き日のクリント・イーストウッドは、ハリウッドに仕事はなく、イタリアの映画界に逃げ込んだ。そこで彼はセルジオ・レオーネと出会い、『荒野の用心棒』(一九六四年製作。黒澤明の『用心棒』のまんまパクリ)『夕陽のガンマン』(六五年)といった、いわゆるマカロニ・ウエスタンでブレイクする。ストーリーはあって無きに等しく、流れ者がやってきて悪しき者を退治する単純明快なものだ。

しかし『許されざる者』には正義も悪も、勇敢なガンマンもいない。英雄の虚像は剥ぎ取られ、人を殺めた罪の意識にめそめそと涙を流す腰抜けを映し出す。本作は一九九二年のアカデミー作品賞を受賞し、「西部劇を終わらせた作品」として永遠の輝きを放つ。イーストウッドはその後も『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『硫黄島からの手紙』など、映画史に残る傑作を作り上げた。

慎太郎はいつか人生を舞台に喩えていた。「これから最高のクライマックスが待っている」と。だが橋下徹と組んで総理大臣の座に就くシナリオは崩れた。憲法を改正して自衛隊を軍隊として海外に派遣する夢は安倍晋三に奪われた。

僕は言いたい。慎太郎よ、今こそ文芸の世界に帰ってこいと。そしてこれまで以上に、文学を殺してほしい。とどめを刺してくれと。

慎太郎が芥川賞の選考委員を降りたときは、文学が見棄てられたようで寂しくもあった。しかし慎太郎は作家をやめなかった。『やや暴力的に』のうち数作は、脳梗塞を起こして入院中に執筆したものだという。日本文学は差し当たり延命したことになるが、慎太郎の店じまいが近づいていることに変わりはない。

「文學界」で中森明夫さんを相手に、「自分は政治家だから作家として正当な評価を得なかった」と発言していたが、はっきり言わせてもらう。あなたが政治家でも裕次郎の兄でもなかったら、とっくに「あの人はいま」になっていた。そうだろう? どれだけの人があなたの永遠の渇きを分かち合えるというのか。

だからこそ慎太郎よ、あなたが築き上げてきた戦後文学を終わらせてほしいのだ。そして「自我」も「太陽」も「孤独」もなかったんだと、しめやかにその神話に幕引きをしておくれ。


初出:「文學界」2014年9月号


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対談 「政治家・石原慎太郎」を大嫌いな人のための「作家・石原慎太郎」入門―新潮45eBooklet
中森明夫/著、樋口毅宏/著
https://www.shinchosha.co.jp/sp/ebook/E622741/

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